第一話「全てが失われた少年」
「――がっ……!!」
喉が潰れたような音が暗闇の中に漏れた。
腹の奥が焼ける。
熱い。痛い。苦しい。
冷たい鉄の感触が、内側から蝕むように広がっていく。手を当てると、ぬるりとした液体が指に絡みついた。
血だ。
――母さん……父さん……
視界が揺れる。力が入らない。息が出来ない。
――……ご め ん な さ い
声にならない謝罪を最後に、意識が闇に沈んだ。
---
いつになく冷えた月だった。青白い光を放つそれはどこか寂しげだが、同時に何もかもを見通しているような冷たさも持っている。
(ここは……どこ、だ……?)
赤ん坊は不鮮明な意識のまま、小さな頭を少し捻って辺りを見回す。そこは木造建築の一室。寝室のような部屋で白装束の女性が数人慌ただしく動いていた。機械類は一つも見当たらず、置かれている椅子やベッドも、かなり古い造りに見える。おまけに女性は皆、凹凸のある西欧風の顔だ。
(おかしい、明らかにここは日本じゃない……)
視線を窓に移し、そこに映る自分の姿を見たその瞬間、赤ん坊は思わず呼吸を止めた。自分が寝ているはずのベッド。そこには大きな瞳をした可愛らしい赤子が居た。
(何だよ…この姿は………。俺はもっと――)
思考が途中で途切れる。
(……も、 もっと…)
口の中が一気に乾いていく。今まであった年齢にそぐわない落ち着きが完全に消え去る。どれだけ自分の容姿を思い出そうとしても、頭の中に白いモヤがかかったように何も思い出せない。
(俺は、誰だ………?)
容姿だけでは無い。家族の顔も、周囲の人間関係も、正確な年齢も、どんな人生を送ってきたのかさえ……何一つ頭に浮かばない。冷や汗が額を流れ、鉛玉が胃に落ちたような鈍い痛みに顔をしかめた。
その時、浮遊感が体を取り巻いた。どうやら白装束の女性の一人が両脇から体を持ち上げたらしい。そして女性は暖かい毛布で赤ん坊の体を包み、抱えて歩き出した。
数歩歩いたところで再び体を下ろされる。そこは、二本の華奢な腕の中だった。雲のように柔らかい感触と人肌の温もりが体を包み込む。顔を上げると、その腕の持ち主と目が合った。
「――っ!」
二十歳ほどに見える女性だ。流れるような白髪を持ち、広大な海を宿したような大きな青い瞳を輝かせている。その双眼から滲み出ているものは誰が見ても明らか――愛情以外の何でもない。
(綺麗だ……)
不自然なほどに神々しいその美貌から目が離せなかった。さっきまで確かにあったはずの恐怖が薄れ、痛むほど渦巻いていた胸のわだかまりが少しずつほどけていく。理由は分からない。だが、その腕の中にいるだけで何もかもが許されるような気がした。
強張っていた体から、ゆっくりと力が抜けていく。
その女性の隣にはもう一人、男が立っていた。茶色の短髪に左目のモノクル。どこか冴えない顔つきだが、薄い顎ひげがかろうじて男らしさを保っている。その男は白髪の女性の肩に手を置き、ほっとしたような表情を浮かべていた。
「ありがとう……ラクア。生まれてきてくれて」
白髪の女性は、確かにそう言った――気がした。その言葉は日本語ではなかった。にもかかわらず、何を言っているのかがはっきりと理解できた。
――理解できてしまった。
その事実に、目を背けていた思考が嫌でも呼び起こされた。部屋に立ち込めていた暖かい空気が丸ごと生え固められてしまったかのように、心臓が凍えだす。
(何がどうなってるんだ……?)
混乱の中で二つ確かな感覚があった。自分はこんな赤子ではなく、それなりに人生を歩んだ人間だったということ。そして、記憶を失う前、自分は別の――文明が発達した世界で生きていたという事だ。
(落ち着け……なんでもいい。何か一つ、他に思い出せるものがあれば……)
小さな手を強く握りしめる。まだ生え切っていない爪が、わずかに皮膚に食い込んだ。
その刹那――
キィーン!!
頭の中をつんざくような、甲高い音が鳴り響いた。
同時に断片的な記憶が脳を引き裂いていく。
腹部から流れる生暖かい血。
冷たい鉄に腹を貫かれる感触。
声にならない声。
力が入らない。
辛い。寒い。怖い。憎い。救いが欲しい。
痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……
唐突にその感覚は終わりを告げた。息が上手く出来ず、喉がひゅうと音を立てる。空気を吸っているはずなのに足りない。腹の奥がまだ焼けている気がした。
気づけば赤ん坊――ラクアの青い瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
(何だ、今のは)
理解が追いつかない。だが、確かに思い出したことがある。あまりにも非現実的で馬鹿げたことに違いないが、それでも記憶が脳に強く焼きついている以上、それが現実であると信じる他ない。
(俺は、死んだ……)
ラクアは小さな手で腹を押さえた。その手の重なる場所を、確かに刺されたはずだ。だがそこに傷は無く、触れている部分から薄らと鼓動を感じる。その響きが、ラクアの心をだんだんと落ち着けていった。
(落ち着け……落ち着くんだ。ここで立ち尽くして何になる。思い出せない過去を嘆くより、確かに目の前にある今に目を向けろ)
心に詰まったものを吐き出すように、深く息をつく。喉に詰まっていた不快感が少しだけ薄れた気がした。
(少し整理してみるか……)
微かに息を震わせながら、ラクアはゆっくりと思考する。まず、ここは日本ではない。何者かによって殺され、赤子として生まれ変わった。そして、自分に関する記憶がほとんど無い。
(それだけじゃない。何か、忘れてはいけない事を忘れてしまった気がする……)
腹の底を引き絞られるような感覚が、ラクアを襲う。思わず寒気を覚えた。体の震えを察したのか、白髪の女性は近くにいた白装束に、ラクアの体を温めるよう頼んだ。白装束の一人はラクアの額にそっと手を当て、一言呟く。
「『微火』」
直後、ラクアは自分の体温がじわりと上がっていくのを感じた。
(何だ、これ……)
それは確かな超常現象だった。魔法……その言葉以外で、この現象を表すことなど出来ないだろう。
口をあんぐりと開けるラクアだったが、心地よい温もりに包まれ、瞼がどんどん重くなっていった。その感覚に抗うことができず、そのまま眠りこけてしまった。
---
何も見えない真っ暗闇の中にラクアは浮かんでいた。心臓の鼓動、それ以外何も聞こえない。うるさいほどに鳴り響くそれは、ラクアの精神が不安定である事を明確に表している。
原因のわからない不安に押しつぶされそうになっていると、不意に人の気配を感じた。その気配は明らかにラクアの目の前に存在している。だが容姿は愚か、性別さえも判断出来ないほどおぼろげな気配だ。
「殺されたんだろ?」
声はすぐ近くで聞こえた。複数人の声が何重にも重なったような不自然な声。
「なら死ねよ……」
冷たく、低い男の声だった。
「どこまでも中途半端な奴だな、お前は」
男の気配が近づいてくる。だがその距離が分からない。すぐ目の前にいる気もすれば、どこまでも遠くにいる気もした。
(誰だ……)
「まぁでも、かえって好都合か……。今の状況は俺にとっても、お前にとっても……渡りに船だ。そうだろ?」
(お前は誰なんだ……)
「……七川修治」
(七川……修治……)
気道に栓をされたように呼吸が止まる。知らない名前のはずなのに、胸の奥がざわつく。思い出してはいけない何かに、触れてしまったような感覚だった。
「じきに思い出すさ。お前が何をして、何のために生まれ変わったのかを……」
不協和音のような悍ましい声が闇に響く。
「……いや、待て――」
毛穴という毛穴、産毛に至るまでの触覚が、男が眼前に迫った事を感じ取った。
「お前……本当に忘れたのか?」
---
体の震えとともにラクアは目を覚ました。そこは柵付きのベッドの上だった。
(夢…だったのか……?)
部屋は先ほどと打って変わって静かさで満ちている。白装束の女性達は何処にも見当たらず、白髪の女性と茶髪の男性が、隣のベッドに並んで寝ている。おそらく、この二人がラクアの両親なのだろう。見慣れない景色のはずなのに、実家に帰省したような安心感だ。
(そういえば前世でも、俺には家族がいたんだよな…)
顔も声も思い出せない人との別れを、悲しいとは思わない。それでも、確かにいたはずの両親を残して先に死んでしまったことに、自然と罪悪感を覚えた。
(まあ、俺より先に死んでる可能性もある。あまり深く考えないようにしよう)
頭の中で開きかけた思考の扉を無理矢理閉める。そして、それとは関係無しに心の奥底はまだ氷のように冷えていた。原因は考えるまでもなく夢で見た男だ。
(生前、俺と関わりがあった人間なのか?)
知り合い、友人、家族。前世での関係に思い当たる節はこれといってない。だが、記憶に強く残っている人物であることだけは確かだった。
得体の知れない人物からの罵倒。それだけに、ラクアの心は深く沈んでいた。だが――、
――七川修治。この名前は記憶を取り戻す手掛かりになるはずだ
いつしか体の震えは無くなっていた。不安が消えたわけでは無い。それでも前を向くきっかけを逃したくなかった。
(まずはこの世界のことを知ろう。自分の事に目を向けるのはその後だ)
落ち着いた匂いのする布団に埋もれた小さな手を握りしめて、ラクアは前を見据えた。映るのはただの天井。だが見えているのはどこか遠くにあるはずの景色だった。
――俺は必ず、失った全てを取り戻してみせる
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