第十五話「全てを失った少年」
商店街の手前でリーファと別れたラクアは、夕暮れの中を早足で進んでいた。
(思ったより遅くなってしまったな……。早くどこかでメリダに贈る花を買わないと)
周囲を見渡しながら歩いていると、ポツポツと雨が降り出した。すぐにメリダから渡された傘を差し、商店街を進んで行く。
雨の匂いが街を包んだその時、ふと一軒の店が目に留まった。小さな花屋だ。アンティークな雰囲気の店構えで、ショーウィンドウの奥には見事な花束がいくつも並んでいる。
無意識に足を止めたラクアは扉の取っ手へ手を伸ばし、吸い込まれるように中へ入った。店内はやや薄暗く、並べられた無数の植木鉢にそれぞれ異なる花が咲いており、その色だけがかろうじて空間に彩りを与えている。
視線を店内のあちこちへ巡らせていると不意に誰かの視線を感じ、カウンターの向こうに一人の人影を見つける。
長い群青色のローブをまとったその人物は、フードを深く被っており目元は見えない。だがフードからこぼれる白髪と、深い皺の刻まれた口元、鷲鼻に青白い肌が、その人物がかなりの高齢であることを物語っている。
「こんな時間に客とは……妙な巡り合わせだな」
しゃがれた声が店内に響いた。ローブを着た店主はフードをわずかに持ち上げ、片目だけを覗かせる。
その瞬間、背筋に寒気が走った。ラクアを見つめるその瞳孔は大きく開かれていて、まるで頭の内側まで見透かされているような感覚を与えてくる。
「こんにちは。ラクア・シャーデットと申します。
母への贈り物に花を買いに来たのですが……」
沈黙に耐えきれなくなり、ラクアは先に口を開いた。しかし店主は口を閉ざし、何も聞こえていないかのようにただ黙って見つめ続けてくる。
その目は、瞬きすらしていない。
「そうか……お前が……」
店主が、呟くように言葉を落とした。
(どうやらカルケルの英雄って肩書きは、伊達じゃないらしいな。こんな隣町にも、俺の事を知っている人がいるとは…)
店主はラクアを真っ直ぐ見据え、食い入るように見つめる。
「まさか今日という日に出会うとは……。こんな日には特別な代物が相応しい」
店主は踵を返すと、背後に置かれていた木箱を開け、何かを探り始める。その間店内には静かな時間が流れ、窓を叩く雨音だけが、研ぎ澄まされた感覚を刺激した。
やがて店主は何かを取り出し、振り返ってカウンターに何かを置く。それは厚みのある花びらが柔らかく広がり、どこか冷たい美しさを湛えている青い花束だった。
「カーネーションだ。お前もよく知っているだろう。母親への贈り物にはうってつけだ」
ラクアはその花が放つ異彩な美しさに魅せられ、気づけば、手はその花束を受け取っていた。
そのままとんとん拍子に支払いを済ませ、店を後にしようと扉の取っ手を握ったその時、ラクアの耳にしゃがれた声が届く。
「また会える日を楽しみにしているぞ。黒い子犬よ」
意味不明な言葉におもわず振り返ったものの、老人は変わらず無表情でこちらを見ている。ラクアは老人の得体の知れなさに首を傾げながらも、扉を引いて店を後にした。背後で老人の視線だけが、値踏みをするように自身の背を追っていることにも気づかずに……。
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カルケルへ戻ったラクアは、雨に打たれながら自宅へと歩みを進めていた。傘を差し、空いた手にはカーネーションの入った袋を握っている。
(帰ったら、俺の部屋でロインとルージュに折り紙を教えてやろう。悪戯好きの二人がいると、パーティの準備が終わらなさそうだ)
一人くすりと笑い、ふと袋の中を覗き込む。カーネーションの花弁には、袋の隙間から入り込んだ雨粒が滴り、かすかな光を受けてきらめいていた。
(喜んでくれるといいな……)
雨で霞む視界の中でも、ラクアは足を止めずに歩き続けた。
やがて自宅の前に辿り着き、いつものように扉を叩く。
しかし、返事は無い。
「出かけてる訳じゃないよな……」
そんな予定は聞いていない。今現在ジークたちはメリダの祝願日を祝うパーティの準備をしているはずだ。
手が塞がっているのかと思い、しばらく待ってみたものの、家の中から足音が聞こえてくることは無かった。
ふとラクアは扉にはめ込まれたすりガラスが、暗く沈んだ色をしていることに気がついた。
(灯りがついてないのか? どうして……)
それだけではない。いつもならロインの騒ぐ声や、ルージュの泣き声が外まで聞こえてくるはずだ。だが今は――雨音しか聞こえない。
胸の奥が何かを訴えるようにざわめき出し、ラクアは反射的に扉を強く引いた。
扉はほとんど抵抗もなく開き、鍵が掛かっていないことを同時に理解する。玄関の先には薄暗い廊下がまっすぐ続いており、人の気配は全く感じられない。
「誰もいないのか?」
ラクアの声は静かな空気に吸い込まれ、返事は返ってこなかった。冷たい床を踏みしめながら廊下を進み、居間の扉に手を掛ける。そのまま躊躇なく扉を押し開けた。
部屋の空気に触れた瞬間、足が前進する力を失う。
扉から数歩先の床。
そこに――
うつ伏せで動かないジークが居た。
(………え?)
人形のように力無く倒れているジークは、首から血を流し、右手を固く握りしめたまま左手を部屋の中央へと伸ばしている。ラクアは叫ぶことも喚くこともできず、ただその光景を見ていた。
「父……さん?」
手から袋が滑り落ち、中の植木鉢が乾いた音を立てて砕ける。だがその音さえ、ラクアの耳には届かない。
(……何だ、これ)
そしてジークの手が指し示す方角――
部屋の奥の壁にもたれるようにして、メリダが倒れていた。
腹部から流れた血が床を赤黒く染めている。虚ろな青い瞳はもうどこも見ておらず、不気味な美しささえ感じられた。
震える足でメリダに駆け寄り、首筋に触れてみるが、ラクアの心を何度も優しく暖めたその白い肌は氷のように冷たい。
ラクアは膝から崩れ落ちた。この世から音が消えてしまったかのように静かな空間に、小さな少年の重さが響き渡る。その沈黙はほんの一瞬だったはずなのに、ラクアには永遠のように感じられた。
「………………なんで?」
やっとのことでラクアの口から絞り出された言葉は、怒りでも悲しみでもなくただの困惑。ジークとメリダ以外の残りの家族のことさえ頭に浮かばなかった。
目の前の現実が信じられない。
信じたくない。
荒く乱れる呼吸の音が、ほとんど泣き声に変わっていたその時――
キィィーーン!!
頭蓋を裂くような痛みが走った。
「あ゛あ ぁ っ……」
喉の奥から、嗚咽とも苦痛ともつかない声が押し出される。
今までも同じような事はあった。
だが、この感覚はこれまでと次元が違う。
頭が押しつぶされそうな感覚。一つ一つの記憶が、ラクアを殴りつけるように脳に押し込まれていく。
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血に濡れたナイフが、視界の端で揺れる。
青白い手が、何かを掴もうとしている。
荒い息が、すぐ近くで響いている。
滝のような汗が、額を伝って落ちる。
見覚えのある天井。
力の入らない足。
隣に転がる薄汚れた男。
壁にもたれかかる女。
――痛い
――辛い
――怖い
――死にたくない…
境界も無く全てが押し寄せてくる。
机の上で一枚の名刺が燃えている。
『瀬飼天世』
貼られてある写真は、壁にもたれている女の顔と同じものだ。
その女は前方に居る誰かを見ている。
「――……っ」
女は誰かの名前を呼んだ。何かを懇願するようなその震えた声は、どこか懐かしさのある声だった。
(母さん……?)
女の目から光が失われる。
(あぁ、そうだ……俺は――)
――七川修司を許してはいけない
許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない……
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頭の痛みが唐突に収まった。記憶はもう流れてこない。なぜなら――
「……思い出した」
忘れていたはずのものを。
一筋の涙が頬を伝う。そこからもう一筋、また一筋とこぼれ落ち、やがて堰を切ったように溢れ出した。
猛烈な吐き気に襲われ、ラクアは床に突っ伏して吐いた。
寒い。
体が震える。
(そうか、俺はまた……救えなかったんだ)
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それからどれほどの時間が経ったのか。涙が枯れ果てる頃、ラクアは冷たい床に横たわり、涙の跡を残した無表情のまま動かなくなっていた。
その青い目が映す視界には、二人の亡骸が収まっている。だがラクアは不意に、ジークの手に何か小さなものが握られていることに気がついた。
起き上がり、何かに引き寄せられるようにジークに近づき、ラクアはその手を開こうとする。しかし死後硬直が始まっていたジークの手は、簡単には開かない。
それでも無理やりこじ開け、ついには中のものを引き抜いた。それは青い宝石のような、丸く薄い物体だった。
(これ…どこかで……)
その後、ラクアの通報によって防衛員が駆けつけ、ラクアはそのまま防衛省に保護された。
リーア、ロイン、ルージュと思われる遺体が、それぞれ別の場所で発見されたという知らせがラクアのもとに届いたのは、それから半日後のことだった。
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ラクアが家族を失ってから一週間後、カルケルの教会で亡くなった五人を弔う葬式が行われた。
式中一貫して無表情で俯くラクアに、メリダとよく出かけていた近所の婦人や、商店街で声をかけてくれた店主たち、リーアの友人たちなど、顔見知りの人々が悔やみの言葉をかけてくれたが、ラクアは深々と頭を下げるだけで受け流した。
だがしばらくすると、家族同然であるファウロが現れたので、黙っている訳にもいかず顔を上げる。ファウロは普段の厳格な表情ではなく、涙で目を腫らしてやつれた顔でラクアに歩み寄った。
「お前たちと一緒に過ごした時間は、本当に幸せだった。あの瞬間だけは、自分の生きる意味が少し分かるような気がしたんだ……」
ファウロはそう言うとラクアを抱き寄せ、大きな体を小刻みに震わせて啜り泣いた。
「ジークが言っていたんだ。もし自分に何かあったら子供たちを頼むと。お前さえ良ければ、俺と一緒に暮らさないか」
その言葉でまた涙が溢れそうになる。ファウロと共に暮らすというわずかな安心感と、もう元の生活には戻れないという喪失感が、ラクアの胸を痛いほどに締め付けた。
「ありがとう、ファウロ」
そういうと少し離れ、深々と頭を下げる。
「よろしくお願いします」
その姿を見て、いつも仏頂面でラクアと接してきたファウロは、初めてラクアに笑みを向けた。
葬式が終わると、ラクアは順番に家族の棺を運んだ。弟妹の遺体が回収された際、リーアの遺体は損壊が激しく、顔を確認することができないほどだった。死体がリーアのものと判断されたのも、いつもリーアが身につけていた家紋付きの髪飾りが、肉の塊のそばに落ちていたからだ。
その為、妹の痛々しい姿を露わにすることはとてもできず、五人すべてを閉じた棺で弔うことにした。それにより自分の家族の遺体を運んでいるという実感は薄く、棺の重さと冷たさだけがラクアの体にのしかかった。
片付けを終えたラクアは、外の空気を吸うために葬式の外に出ると、近くのベンチに見慣れた赤髪を見つけた。ベンチに腰掛けていたリーファは視線が合うなり目を細め、わずかに表情を曇らせる。ラクアはそのままリーファのもとへ歩み寄り、隣に腰を下ろした。
「……いらしていたんですか」
押し出されたのは力の抜けた声だ。
「ああ」
「その割には見かけませんでしたが」
「人混みが苦手でな。端の方で参列させてもらっていた」
リーファはラクアの小さな肩を、自分の体で支えるように抱いた。
「お前のことだ、家族を失ったことに強い責任を感じているのだろう。だが人が人を救えるのは、他者の危機の前に立ち塞がることができる時だけだ。お前が責任を負う必要はない」
どんな時も厳しくラクアを指導してきたリーファの包み込むような暖かい言葉。だがそんな励ましの言葉ではリーファの目を見る気も起きず、ラクアは俯いたまま口を開く。
「そうですね……でも先生が、世間が俺を許そうと、俺は俺を許すことができないんですよ」
その言葉を最後に、二人の間に沈黙が落ちた。心地よい風が養生された芝生を揺らし、ざわりと音を立てる。
「一つ、先生にお願いがあるんです」
沈黙を破り、ラクアはようやくリーファの方へ向き直った。
「出会った頃を思い出すな……何だ、言ってみろ」
「俺の訓練を、これまで以上に過酷なものにしてもらえませんか?」
リーファは一瞬翠緑色の瞳を見開いたが、すぐにいつもの無表情へと戻る。
「具体的には?」
「先生が持っている力の中で、俺でも再現可能なものをすべて教えていただきたいんです。もちろん、剣術も例外ではありません」
今度こそリーファは表情を崩し、驚きを露わにした。
「しかし、お前に剣術は――」
「もうそんなこと、言っていられないんですよ。俺が壊れるというのなら、それでも構いません」
リーファの言葉を遮り、ラクアは淡々と言葉を紡ぐ。そんなラクアに、リーファは怪訝そうな視線を向ける。
「どういう心境の変化だ……ラクア」
「………自分を壊してでも、やらなきゃいけないことができたんですよ」
ラクアは顔色一つ変えずに言い放った。いつもリーファに対して尊敬の色が滲んでいたその青い瞳からは鮮やかな光が消えており、代わりに吸い込まれるような威圧感が溢れ出ていた。
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その夜、ラクアは防衛省の保護施設にいた。与えられた小さな部屋にはベッドや机などが備え付けられており、一見すると普通の子供部屋のように見える。
静かに椅子に腰掛ける黒髪の少年には悲しみも、動揺も、恐怖さえも、何一つ湧き上がるものが無い。ただ叫び出したくなるような強い憎しみだけが、胸の内に渦巻いていた。
それを紛らわせようと、一人事件のことを考えるラクア。何もしないより、その方が気が楽だった。
事件が何者かによる殺人であることは、現場の状況から明白だ。そして、ラクアには防衛員と自分しか知り得ない手掛かりがある。
(今ならわかる。あの青い物体は、王龍庁の人間が着るローブに付けられているボタンだ)
桜髪の女に会ったあの日、ラクアは確かに見た。砂埃を上げて前進する王龍庁の騎馬隊の服に、青く丸い物体が取り付けられているところを。
もしジークが抵抗した際に奪ったのだとすれば、家族を襲ったのは王龍庁の人間で間違いない。だがその結論にはいくつかの疑念が残っている。
(証拠は残したくないはずだ。ボタンを取られたことに気づかないなんてあり得るのか? それに、別の犯人が王龍庁に罪を着せるために残した可能性もあるんじゃないか?)
思考が、制御を失ったように止まらない。もはや他のことなんてどうでも良かった。
(いや、王龍庁の備品を部外者がそう簡単に手に入れられるとは思えない。それに、防衛省が証拠を押さえた今も犯人が見つかっていない以上、政府の息がかかっていると考えるのが自然だ)
そして、もう一つの疑問が浮かぶ。
――なぜ、俺は生かされたんだ?
王龍庁はこの大陸の統治者。戸籍でラクアの存在を知らないはずがない。
(駄目だ、情報が少なすぎる)
深く息を吐いて立ち上がり、窓を開け放つ。外はすでに暗く、空にはただ一つの星が弱々しく輝いていた。
(だが、これから生涯をかけて一つずつ紐解いていけば、必ず答えに辿り着ける……)
空に手を伸ばし、星を掴むように手を握る。まるでその星が家族の仇であるかのように、殺意をもって固く手を丸めた。
(俺は家族を救えなかった。救う力が、あったはずなのに……)
それだけではない。
――また、繰り返してしまった……
ラクアは二人の亡骸を前にした時に思い出した。前世でどんな人生を送ったのかを。年齢も、顔も、名前も、生まれ変わった……その意味も。
握った拳を開いて手のひらを見つめると、爪の跡がくっきりと残っており、僅かに血が出ていた。
(前世に残してきたはずの両親はすでに殺されていた。メリダも。ジークも。リーアも。ロインも。ルージュも……。そして――俺の中にいたラクア・シャーデットも、もうこの世にはいない)
心に積もる憤怒を少しでも減らそうと足掻くように、深く息を吐いた。
(俺がこれからすることは……贖罪だ。人並みの幸せなんていらない。家族を殺した奴を見つけ出し、仇を討つまで――)
誰にも見えない胸の奥底で、どす黒い炎が燃え上がる。
――俺は止まらない。全てを失った俺に、もう惜しむものなんてない。
少年は決心した。
修羅の道を進んだ先で必ず犯人を見つけ出し、復讐することを。
たとえ他人を利用してでも、背負った十字架の為に突き進むことを。
愛し、愛されることを忘れ、自分を取り巻く全てを振り払って、贖罪の為に生きることを。
そんな少年に寄り添うように、窓の外の月は冷たく光っていた。まるで空だけが、少年の心で渦巻くものを知っているとでも言うように。
今話で第零章は終了となります。
長々とお付き合い頂きありがとうございます。
ですがここからが、本当の“ラクア・シャーデットの物語”です。引き続きご愛読よろしくお願いします。
明日も20時頃投稿予定です。
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