第十話「曙光」
ラクアたちが再び歩き始めてから、すでに一時間が経っていた。二人は闇に押し潰されそうになりながらも、足を止めることなく確実に山を下っていく。歩みを進める間、ラクアは危険に備えるため探知眼を開眼し続けていた。
意識を張り詰めさせるたび、精神がすり減っていくのがわかる。それでもカールは、泣き言ひとつ漏らさずついてきていた。
(カールは凄いな……)
暗闇に慣れ始めた目で密かにカールを見つめていると、その視線に気づいたのか、カールが力無く微笑む。
「ありがとう、ラクアくん。君がいなかったら僕は今ごろ……」
「俺はなにもしてないよ。俺の方が助かってるくらいだ。君が一緒にいてくれるから、俺も今正気を保ててる」
「そう、なのかな…………」
カールは俯き、言葉を詰まらせる。だがすぐに向き直り、今度ははっきりと笑った。
「それでも……僕は、君みたいになりたい」
暗い胸の奥で、何かが静かに灯る。小さな少年の賞賛だが、今のラクアには必要なもので、大きな原動力に変換される物だった。
「なれるさ。絶対に」
そう断言した直後、背後から空気を裂く音とともに鎌が振り下ろされた。間一髪、ラクアは反射的にカールを抱き寄せ横へと飛び退く。
(あぁ、なんで”今“なんだよ……)
さっきまで軽くなっていた足が、鉛のようにうまく動かせない。そんなラクアを、現れた怪物たちは無機質に睨みつける。歯を鳴らす音が、ラクアの心を削った。
すぐさま体勢を立て直し、極視眼でリザードリッパーの脚へと狙いを定める。
呪文を唱えようとしたその時――、
左側から鱗に覆われた巨体が突進して来た。強烈な衝撃が全身を貫き、ラクアの体は宙を舞う。十メートルほど吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。
「かはっ――!」
鈍い音とともに、ラクアは骨が砕ける音を耳にする。
(息が…できない……)
喉をひくつかせながら顔を上げ、探知眼で周囲を探った。そして、視界の端に映った光景に心臓が凍りついた。
(駄目だ…それだけは……)
二体のリザードリッパーが、カールを挟み込むように詰め寄っていく。カールは目を見開き、一歩も動けずに立ち尽くしている。
(それだけは、やめてくれ……)
ラクアは歯を食いしばり、砕けそうな体に無理やり力を込めて立ち上がろうとした。だが足元がもつれて、体は虚しく滑り、再び地面に叩きつけられる。
二体のリザードリッパーが、同時に鎌を振り上げた。まさに処刑の合図のように――
「やめろおぉぉ!!!!」
ラクアの悲痛な叫びが、闇に沈んだ森を引き裂く。
その直後――、
カールの目前に立っていた二体の巨獣の首が、同時にずるりと滑り落ちた。
「……は?」
理解する間もなく、背後で閃光が走る。ラクアに体当たりした一体が一瞬だけ光を帯びたかと思うと、細切れとなって砂埃を上げて地に崩れ落ちた。あまりに突拍子もない光景に、思考は完全に停止する。
もうもうと立ち上る砂埃の中。バラバラになった化け物の死骸の上に、ひとつの人影が静かに立っている。やがて砂埃が晴れ、その姿がはっきりと現れた。
銀色のハーフアーマーに身を包み、黄金の剣を手にした人物。バラのように赤い髪が、夜風に靡いている。
「よく頑張ったな、少年」
凛としていながらも柔らかさを帯びた中性的な声。
その声は、ラクアの張り詰めていた心を緩やかに溶かした。
その人物の顔を目にし、思わず息を呑む。
氷のような無表情。長いまつ毛に、鋭く吊り上がった目。その人物は、整ったその顔立ちの女性だった。
「後は、このリーファ・セリウスに任せるといい」
自信に満ちたその言葉が合図であったかのように、ラクアたちを取り囲んでいた十数体ものリザードリッパーが、一斉にリーファへと殺到した。
(この数を一人で相手するなんて無理だ……援軍を、呼ばないと……)
そう思った刹那――、
視界からリーファの姿が消える。そして、事は一瞬で起こった。だがその一瞬を、探知眼は確かに捉えた。
夜の闇を切り裂くように、一本の光の線が走る。その軌跡がリザードリッパーたちの首元を、正確無比に繋いでいた。
次の瞬間、怪物たちの首が一つ残らずその巨体から切り離された。遅れて轟音が鳴り響き、衝撃波が森を裂く。大地が震え、木々が大きく揺れる。巨大なカマキリの頭部が次々と地に落ち、それらに背を向けるように、リーファが砂埃を巻き上げながら滑るように着地した。
「光魔流剣式奥義・“繋燐拯翔”」
ラクアはただ呆然と目を見張る。
つい先ほどまで、恐怖と死の象徴として立ちはだかっていた怪物たちは、もはや一体として動く気配を残していない。ほんの数秒。それだけですべてが終わっていた。
突然、ラクアの意識が糸を断たれたように揺らぎ始める。肺を圧し潰すような息苦しさとともに、肋骨の奥から耐え難い激痛が走った。
(助かった…のか……?)
張り詰め続けていた緊張が、ようやくほどける。
その反動に、安心感と深い疲労が一気に押し寄せた。
抗う間もなく視界が暗転する。そのまま地面へと崩れ落ち、静かに意識を失った。
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目を覚ましたのは、事件から二日が経った朝だった。意識を取り戻した瞬間、視界いっぱいに映ったのは、目を泣き腫らしたメリダの顔。力いっぱい抱き締められ、危うく締め殺されかけたが、慌ててジークがリーアをファウロに預けて割って入り、どうにか最悪の事態は回避された。
落ち着いた後、ラクアはジークから事件の顛末を聞かされた。魔生物が存在しないはずのルーマスの森に、何者かがリザードリッパーを放ったこと。その首謀者はいまだ捕らえられていないこと。ラクアとカールを除き、オリエンテーションに参加していた園児と教師は全滅したこと。そして、責任を取る形で魔童園は廃園となったこと。
どれも重く、胸に沈む事実だった。だが最後に、ジークは最も重要な情報を口にした。ラクアが命懸けで守り抜いた少年カール。その正体は、ブロンズ王国の第三王子だった。
ジークは一通の手紙をラクアに手渡した。ラクアは呆然としながらもそれを受け取り、震える指で読み進める。
そこに記されていたのは、ブロンズ王国からの正式な感謝の言葉と、王国の事情についてだった。手紙によれば、ブロンズ王国では王子であっても市民と同じ教育を受けさせるという伝統があるらしい。カールは身分を隠し、魔童園に通う予定だったのだ。しかし第三王子という立場の低さゆえ、警護は最低限に抑えられ、まともな護衛すら付けられていなかったのだという。
ラクアは手紙を握り締めたまま、言葉を失っていた。それを見かねて、ジークが静かに声をかける。
「多くの人々は、今回の事件を第三王子の座を巡る政治的な争いだと考えている。だが、真実は誰にも分からない。……お前はただ感謝を受け取ればいい」
ラクアは小さく頷き、その日は一日中布団の中で過ごした。だが眠りはなかなか訪れなかった。疲労は確かに残っているというのに。
(俺は結局、一人しか助けられなかった。俺はこの現状に喜んで良いのだろうか……)
思い出されるのは、痛く耳を焼いたあの悲鳴。泣き叫び恐怖に凍りつく、まだ五つにもなっていない子供たちの顔。
(いや、良いわけがない)
わだかまりは解けることなく、胸の奥で重く澱み続ける。無事にカールを守り切ることができたという事実だけが、唯一の心の支えだった。
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翌日、ラクアはシトローンにある教会で行われた、事件で命を落とした者たちの葬儀に、ファウロを含めた家族全員で参列した。
会場に足を踏み入れた瞬間、ラクアは息を呑んだ。
そこには、悲しみしか存在しなかった。まだ幼い我が子を失った親たちが、会場いっぱいに立ち尽くしている。声を上げて泣き崩れる者。涙も流せず、ただ虚空を見つめる者。この世界から喜びという感情が失われてしまったのではないかと錯覚するほどの空間。
重く沈んだ空気の中、ラクアは一歩、また一歩と奥へ進む。座席の先にある講壇には銀の盾が整然と、そして無機質に並べられていた。数は一つや二つではない。何十という盾が、まるで壁のように立ち並び、鈍く光を反射している。
近づくにつれ、ラクアはそれぞれの盾に刻まれた文字を目にした。そこには、亡くなった人々の名前が一つずつ、逃げ場のない現実として刻み込まれている。
写真が存在しないこの世界では、葬儀に遺影はなく、代わりにその者の生を示す証として、銀の盾が捧げられる。ラクアはこの日、初めてその事実を知った。
名前だけが並ぶ光景は、顔や声を思い出す余地すら与えず、死そのものを数として突きつけてくる。その中には、つい昨日まで言葉を交わしていた名前もある。これほど多くの死が一度に、しかも目に見える形で並べられ、ラクアは悲しみよりも先に恐怖を感じた。
その後、リーアを抱えたメリダとジークが受付で署名をしている間、ラクアはファウロと共に、会場の隅で黙って立っていた。
重苦しい沈黙が続く。
ふと顔を上げると、ラクアの前にベージュ色の髪をした婦人が立っていた。その瞳には涙が滲み、同時に、刺々しい敵意が宿っている。
「どうして……うちの子を助けてくれなかったの?」
「…………え?」
あまりにも唐突な言葉に、ラクアはただ聞き返すことしかできなかった。
「あなたが……うちのマールボロを助けてくれていたら……私は、こんなふうに一人にならなくて済んだのに……!」
その瞬間、ラクアは自分の頭に血が昇るのをはっきりと感じた。
(確かに俺は、カール一人を助けて、残りの五十三人を見殺しにした。でも、俺だって全員助けたかったんだ。俺自身が死んでいた可能性もあったし、全員を救う余裕なんて無かった。なんで俺がそんな目で見られなきゃいけない……?)
精神の均衡を失っていたラクアは、冷静さを欠いていた。今この場で、吐き出してしまえば楽になる。
そう思い、反射的に口を開きかけた――その時だった。
ごつごつとした大きな手が、ラクアの頭を強く掴んだ。有無を言わせぬ力で押さえつけられ、ラクアの視界が下を向く。すぐに、その手がファウロのものであると理解した。
ラクアが隣を見ると、ファウロ自身も、深々と頭を下げている。
――意味が分からない
なぜ今、自分が頭を下げさせられているのか。
なぜ、反論する権利を奪われているのか。
なぜ、ファウロまで頭を下げているのか。
そのまま数十秒、二人は頭を上げなかった。婦人が鼻をすすり上げる音だけが響き渡る。やがて婦人は、二人を一瞥したきり、何も言わず会場の中央へと戻っていった。
ラクアが何か言おうとするより先に、ファウロは手を離した。
「俺はな、お前に責任があるなんて微塵も思っちゃいねぇ。一人の命を守り切った。それだけで十分だ。
お前は、よくやったよ」
「じゃあ、なんで……」
前を向いたままのファウロに、ラクアは問いかける。
「人間は何かに寄りかからねぇと生きていけねぇ。だから拠り所を失った時、人は簡単に折れる。……その前に、誰かが憎しみの捌け口にならなきゃいけねぇ」
ファウロはゆっくりとラクアに向き直り、肩を抱いた。
「お前は強い。だから、お前は多くの人間の拠り所になってやれ。それが強く生まれた者の責務だ」
胸の奥が焼け、ラクアは何も言葉を返すことが出来なかった。加えて自分の隣に立つ大きな男の目に映る自分が、あまりに小さく見えた。
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葬儀は滞りなく進み、わずか一時間ほどで終わりを迎えた。会場を出たラクアは、ふと視線の先に見覚えのある赤髪を捉える。
リーファ・セリウス。鋭い眼差しを持つ華奢な美女は、会場外のベンチに腰掛け、俯いたまま全く動かない。ラクアはジークに一言断りを入れると、ゆっくりと彼女のもとへ向かい、隣に腰を下ろした。
「こんにちは。ラクア・シャーデットと申します」
発した声は、ラクア自身の想定よりも落ち着きを持っていた。
「先日は……命を救っていただき、ありがとうございました」
リーファは顔を上げ、ラクアを一瞥する。感情を削ぎ落としたような無表情のまま、短く答えた。
「君は、あの時の少年か……意識が戻ったんだな。よかった」
「貴方がいなければ、今ごろ母は干からびて死んでいたでしょう」
「だろうな。気を失った君の姿を見ただけで、彼女は洪水を起こす勢いで泣いていたよ」
一瞬だけリーファの表情が緩む。しかしそれも束の間、すぐに引き締まり鋭さを取り戻した。
「……君には謝罪しなければならない。もっと早く情報を掴み、君たちの元に駆けつけていれば、君の友人をより多く救えたはずだ」
胸がずしりと重くなる。自分より遥かに強い人間が、自分と同じ悔やみを持っていることを理解しつつ、本質は全く違っていることも直感的に理解した。
「いえ……」
首を振り、視線を落とす。
「一番近くにいたのは、俺です。俺が……もっと力を持っていれば……」
「それは遺族の方に言われたのか?」
リーファはラクアの心を見透かすように見つめる。
ラクアは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに顔を上げた。
「いえ、俺の意志です」
その答えに、リーファはわずかに目を見開いた。
「そうか。して、君はこれからどうするつもりだ。魔童園は閉鎖されるんだろう?」
ラクアは今度こそ、深く沈黙した。
(俺は、弱かった。強いと思っていた自分は、ただ“四歳児としては”出来が良かっただけだ)
――もう、誰も死なせたく無い。だったら俺がするべきことは………
ラクアは立ち上がり、リーファの正面に立った。そして、まっすぐ前を見つめる。
「リーファ・セリウスさん。貴方にお願いがあります」
「……なんだ、言ってみろ」
間髪入れずに、リーファは問う。
「俺を弟子にして、育ててくれませんか?」
リーファは息を呑み、何も言わず目を閉じた。そして、しばらく沈黙を貫いた後、再び口を開く。
「……良いだろう。私が君を育てる。だが、私は君を子供として扱わないぞ?」
胸に確かな高揚が灯ると同時に、冷たく重い覚悟が骨の奥に沈み込んでいくのを感じた。しかし、ラクアの中で答えはすでに決まっている。
唇の端をわずかに吊り上げ、年相応とは言えない挑戦的な笑みを浮かべた。
「望むところです」
その一言にリーファは目を細め、初めてラクアに笑みを向けた。
「よろしく頼むぞ。ラクア・シャーデット」
ラクアは頷き、硬い握手を交わした。胸の奥に沈んでいた迷いは、もうどこにも無い。守る力を手にするために、小さな少年は立ち上がった。
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