六章 連なる決意 十三話
13、桔梗の場合
足音が、聞こえる。
変革の足音が。
芙蓉が長い間計画したものが、形となって成そうとしている。
芙蓉と桔梗の子、風蘭が。
彼はこれが全て『仕組まれた』ことだと聞いたら驚くだろうか。
そう、全て。
芙蓉が政務をすることなく病死することも、それを継いだ次王も政務がとれないことも、そして、風蘭がその次王に反逆することになることも。
すべて、芙蓉が想像した通りになっていると知ったら、風蘭はどんな顔をするだろうか。
しかし、桔梗は最後まで見届けなければならない。
どんな結果になろうとも。
先に逝ってしまった芙蓉の代わりに。
桔梗は芙蓉の妃だから。
けれど、その結果を見届けた先は・・・・・・。
「・・・・・・桔梗さまっ・・・!!」
呼び掛けられた名に、桔梗ははっと意識を浮上させる。
過去に思いを馳せすぎて、随分深く瞑想してしまったらしい。目の前では、桔梗の側女である花霞が心配そうに桔梗を見つめている。
「・・・どこかお加減がよろしくないのですか?」
「いいえ、少し考え事をしていただけよ、花霞」
「・・・お呼びしてもなかなかお答えがいただけないので、心配いたしました、桔梗さま」
心配そうにこちらを見つめる花霞に、桔梗は思わず笑みをこぼしてしまう。
「・・・桔梗さま?」
「いいえ、なんでもないのよ、花霞」
今はもう、あまり呼ばれなくなってしまった名に、懐かしさとうれしさが込み上げてきたなど、花霞にはわかるまい。
桔梗はいまや、この後宮の中で『双大后』と呼ばれることが多くなった。花霞も公式の場や、他の女官がいる前では、極力『双大后』と呼ぶようにしているようだった。
それなのに、今彼女の名を呼び掛けたのは、それほど桔梗が深く自らの思考に沈んでしまっていたためであろう。
そして、現状の混乱も案じてのことであろう。
花霞にも色々苦労をかけてしまっている。
だから、花霞にまで芙蓉との『計略』を打ち明けてしまって負担をかけたくはなかった。
そのために、話せない秘密が多くなってしまったが。
桔梗にとっては、妃になったばかりの頃からずっと一緒にいる、心許せる大切な女官だ。
「・・・桔梗さま、また芙蓉陛下のことをお考えでしたか?」
穏やかな口調で、花霞が桔梗に尋ねる。桔梗もまた、穏やかに笑って見せた。
「・・・この扇子を持っているから、かしら?」
「はい。その扇子は特別な扇子なのですか?」
「・・・芙蓉陛下にいただいたものよ」
「芙蓉陛下に・・・ですか?!」
桔梗の解答に、花霞が驚きを隠しもせずに瞠目する。そんな彼女の反応がおもしろくて、桔梗は温めていた秘密のひとつを花霞に教えてやることにした。
「・・・そんなに意外だったかしら」
「いえ・・・あの、芙蓉陛下はあまり誰かになにかを下賜されることをうかがわなかったものですから」
「・・・そうね。あの方は、必要以上に人と関わることを避けていらした」
いつか早い段階で死を迎えることを知っていたから。そして、彼の周りには彼が信用できる者もいなかったから。
『計略』を託せる相手が。
だから、それを唯一託された桔梗に手渡された扇子。
「この扇子は、大切なものよ」
桔梗はそう言いながら、ゆっくりと扇子を開く。人前で、決して開くことのなかった、桔梗の扇子が。
彼女のその突然の意外な行為に、花霞が息を飲むのが聞こえたが、桔梗は構わずに扇子を開いた。
「これ・・・・・・は・・・」
「芙蓉陛下が、人生の中で最初で最後に下賜されたものよ」
開かれた扇子。
桔梗が大切そうに常に握りしめていたその扇子に描かれていたのは、フヨウの花。
「芙蓉陛下の・・・『花』・・・・・・」
風蘭が話しているのを耳にしたことがある。
芙蓉陛下は、ただひとりにだけ、『花』を下賜したと。
たったひとりだけ、芙蓉の全ての信頼を受けた者がいると。
まさか・・・・・・それが、朝廷の重臣の誰かではなく、妃であった桔梗だったとは・・・。
「・・・結局、あの方はわたくし以外にこの『花』をお渡しすることはなかったわ・・・」
それは、唯一『花』を手渡された桔梗にとって、誇りであると同時に、重荷でもあった。
芙蓉に話してもらった『計略』を、誰とも分かち合うことなく、独り抱えていろ、と言われているに違いないから。
これを手渡された時のことを、桔梗は今でも鮮明に覚えている。
「・・・この扇子を・・・わたくしに・・・・・・?」
「そうだ。正妃となるからには覚悟がいると言ったろう。まずは、それは契約の印と思ってもらっていい」
桔梗が妃審査に通り、正式に芙蓉の正妃となって、初めてふたりきりになったとき、芙蓉はそう言った。
彼が彼女に手渡したのは扇子。それを開いた桔梗は、扇一面に描かれたフヨウの花に瞠目した。
「これは・・・」
「『花』だ。『計略』に加担するなら、これを受ける権利がある」
ぶっきらぼうに放たれる芙蓉の言葉。
けれど、彼が構想したその『計略』は、自らを犠牲にしてでも国を守ろうとする、近代で最も王らしい王の考えだった。
だから、桔梗は芙蓉についていこうと決めた。彼の描く未来に、自分も加わろうと。
共に描きたいと。
それがたとえ、愛する人を失い、自らの身さえ危うくなるものだとしても。
「・・・お受けいたします、陛下」
だから、桔梗はその扇子をしっかりと握りしめて答えたのだ。
「・・・ではまず、わたしの『計略』の序章を話そう」
一瞬だけ笑みを見せたかのように見えた芙蓉だったが、すぐにいつもの鉄仮面に戻ってしまう。
そして、その鉄壁の仮面から紡がれた言葉は、桔梗の想像を超えるものだった。
「・・・まずは、公子は3人必要だ。それ以上でもそれ以下であってもならない」
「3人・・・ですか?」
「そう。そして、正妃の公子は、第3公子でなければならないのだ、桔梗」
すでに芙蓉の中での決定事項に、桔梗は口を挟む余地すらない。
「幸いと、北山羊一族の星占で、わたしは3人の公子に恵まれると出ていると聞いた。・・・ならば、その状況を利用する」
「北山羊一族の星占は、はずれることがございませんものね。・・・まして、芙蓉陛下にご報告申し上げるのであれば、なおのこと」
「・・・だから、その3番目の公子を、正妃の公子にしたいのだ」
「なぜ・・・と伺っても?」
問う桔梗に、芙蓉は深い漆黒の目を彼女に向けた。
何もかもを飲み込み、包み込み、拒絶してきたその漆黒の瞳を。
けれど、そこに不思議と冷たさは感じなかった。
「・・・賭けるのだよ。わたしたちの公子が、わたしたちの国を変えてくれると。わたしたちはその礎になれればいい」
どこまで見通し、どこまで組み立てているのか。芙蓉の持つ、果てのない深さに、桔梗はただ脱帽するだけだった。
そして、それから予言のように告げられた芙蓉の言葉通りに、物事は進んでいった。
芙蓉が政務に見向きもしないことを咎める者たちすら、すべての駒となり、芙蓉の盤上の上で彼の思うように動いていた。
桔梗は確かめたわけではなかったが、おそらく、この国の政務の一切を握り込み独裁者よろしく権力を奮う蘇芳すら、芙蓉の駒のひとつだったのではないかと思われる。
そんな、ぞっと背筋が寒くなるようなことを思う度、一見だらだらと政務をさぼっているように見える芙蓉が、恐ろしく感じられた。
彼は自らの『計略』のためなら、一族全員を血祭りにすることも厭わない男なのだった、と思い出させされる。
けれど、その『計略』の果てにあるのは、傾き崩れ落ち始めている星華国の再生。
桔梗が思い付かない、想像もできないほど、壮大な『計略』の果てにあるもの。
そんなものをたったひとりで実行しようとしている芙蓉の傍らに立つことを許されたことを、桔梗は恐怖よりも大きく、誇りを感じた。
この手にある、フヨウの扇子が一層、桔梗に貴妃としての自信と責任感を与えた。
芙蓉は芙蓉の領域でやるべきことを果たし、桔梗は桔梗の領域で為すべきことを為した。
それはすれ違う王と王妃に見えたようだが、むしろふたりは深い深いところで確かに強く繋がっていた。
その深い絆が裂かれたのは、どうすることもできぬ、『死』というものだった。
元々病弱な芙蓉だったが、即位してからより一層臥せることも多くなった。それはたったひとりで抱える、壮大な重責のせいかと思っていたが、つい最近筆頭侍医による証言によって、それだけではなかったのだと知った。
少しずつ毒を体内に取り込み、寿命を縮ませ、自らの治世の終焉を向かわせる。それが、芙蓉のやり方だった。
そして、桔梗にはなぜ彼がそんな手段に出たのかわかる気がした。
すべては、風蘭が国のために立ち上がるために。
芙蓉は、最期の病床で桔梗を呼びつけた。
弱りきったその体で、他の者たちを退室させ、ふたりきりになった。
とても、久しぶりに。
「・・・お加減はいかがですか、芙蓉陛下?」
「・・・いいように見えるのか・・・?」
「・・・いいえ」
相変わらずのぶっきらぼうな物言いに、桔梗が苦笑をもらしてしまう。
わかっているのだ。芙蓉も桔梗も、これが最期の逢瀬であることを。
そして、これが『第一段階』であることを。
「・・・悔いは、ございませんか?」
静かに、桔梗は尋ねる。これがきっと、最期だから。
弱々しく、けれど深みのあるその漆黒の瞳は、確かに光を取り戻して桔梗を見つめ返した。
「自らで決断したことに・・・・・・悔いなど・・・ない。見届けることができぬのが悔やまれるだけだ」
「・・・陛下の代わりに、わたくしが最後まで見届けましょう」
今にも消えそうな灯火に、桔梗は慰めるように囁く。それでも毅然としている桔梗に、ふと、芙蓉が笑みを浮かべた。
今まで見たことのない、優しい笑みを。
「陛下・・・?」
「名を・・・呼んでくれないか、桔梗」
それは初めての要望だった。
そもそも芙蓉が桔梗の名を呼ぶことすら珍しい。
桔梗は一瞬だけそれに驚いたものの、すぐに笑顔を作って、彼の名を呼んだ。
「・・・芙蓉・・・」
すると、彼は満足そうに笑むとそっと瞑目し、そして再び目を開いて桔梗を見つめた。
「わたしはわたしのしてきたことに悔いはない。・・・ただ、そうだな、君ともっと夫婦のようにありたかったものだ、桔梗・・・」
「・・・芙蓉・・・。・・・・・・わたくしは、こうしてあなたの傍に、あなたの最期までいられることを誇りに思っています・・・。あなたからいただいた信頼に、応えることができていたかしら・・・」
「・・・充分すぎるほどだよ。・・・充分だ。風蘭も、期待が持てる公子になった。桔梗に似ているな」
「思い込んだら一直線なところは、あなたに似ていますよ」
「・・・そこは、桔梗に似ているのだろう?」
「いいえ、芙蓉、あなたです」
言い合うふたりは、そんな何でもない会話になんだかおかしくなって、同時にくすり、と笑った。
思えば、こうして『計略』の話以外を話すのは、ふざけあうのは、初めてかもしれなかった。
こんなに時が経って。
こんな、最後の最期に。
ひとしきり笑い合うと、芙蓉は軽く咳き込み、先程よりも弱々しい声で、桔梗に言った。
「・・・・・・悔いはない。やるだけのことをやった。あとは芍薬や風蘭たちに任せよう・・・。・・・だが、望みが、あるのだ」
「どのような、望みですか?」
桔梗がそう尋ねれば、彼にしてみると珍しく躊躇うように、少し恥ずかしそうに桔梗を見返した。
けれど、すぐには答えず、いや、答えることができず、苦しそうに胸を押さえた。
「・・・苦しいのですか?」
「・・・・・・平気・・・だ・・・・・・。どうせ・・・もう・・・長くは・・・もたない・・・・・・」
息を継ぐ合間合間に、絞り出すように言葉を紡ぐ。桔梗はどうすることもできぬ自分に歯痒さを覚えながら、胸を押さえていない芙蓉の片手をそっと握りしめた。
「南天殿を呼びますか?」
「・・・いや・・・いい・・・・・・」
喘ぎながらも、芙蓉は否定する。そして、桔梗の手を握り返して、静かに言った。
「望みが・・・ある・・・」
「・・・はい」
「もしも・・・来世というものがあれば・・・・・・また桔梗と夫婦となりたい・・・。今度は、普通の夫婦として・・・」
芙蓉の目が虚ろに遠くを見るようなものになる。命の灯火がもう尽きてきているのだと、わかってしまう。
それでも、芙蓉は夢見るように、楽しそうに呟く。桔梗にしか聞き取れないほどの声量で。
「普通の夫婦として・・・家庭を持ち・・・・・・家庭だけの幸せを願って・・・・・・そんな、普通の家庭を・・・築きたい・・・・・・。来世こそ・・・・・・幸せにすると、約束するから・・・桔梗・・・・・・君とふたりで・・・」
「・・・風蘭も、ですか・・・?」
「・・・ああ。風蘭も、芍薬も木犀も・・・何にも縛られることなく・・・・・・幸せに・・・・・・」
瞼が、静かに閉じられる。
すぅっと軽く息を吐いたかと思ったら、それきり芙蓉は、息を吸うことはなかった。
桔梗を握っていた手に、力がなくなる。
それでも、桔梗は芙蓉の手を放さなかった。
もう、その魂がここにはないのだとしても、この室にいるのは、たしかにふたりきりだから。
「・・・・・・わたくしも・・・」
小さく、桔梗は芙蓉に囁く。
「わたくしも、来世で芙蓉とまた夫婦になりたいです・・・。・・・わたくしは、あなたの妃で、幸せでした」
来世こそ幸せにするから。
芙蓉はそう言ったが、桔梗は現世でも幸せだった。
芙蓉と過ごした日々が、とても。
周りにはそう映らなくても。
「・・・そうですね・・・。ですが、来世はもう少し、のんびりと過ごしたいですね。あなたの心労がないように・・・・・・」
そっと桔梗は芙蓉の髪を鋤く。
「・・・おやすみなさい。わたくしを選んでくださって、ありがとうございました」
そう言って、桔梗は軽く芙蓉に口付けた。
頬を伝う涙を拭うことなく。
それから1年。
芙蓉の『計略』の通りに芍薬は次王となり、風蘭が反逆者となった。
そしてさらなる月日が流れ、その謀反人である風蘭が、水陽を襲撃せんと迫ってきている。
桔梗は、風蘭の味方にはならなかった。
桔梗は、芙蓉の味方だから。
だから、彼女は見届けるためにも、風蘭と対峙するつもりでいた。
味方になるつもりはなかった。
いよいよ、芙蓉の長年の『計略』の行く末が、決まる。
芙蓉と桔梗の話は、書いていて楽しいですね。腹黒夫婦・・・。
さて、6章の完結まであと少しです。
第一部が終わりに近づいています。
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