初めて見ました
「母様」
私は今、貴族街の大通りを、母様と手を繋いで歩いている。
昨日と同じ、賑やかな貴族街。
馬車の中から見るのと、歩きながら見るのでは、見え方が少し違う。
けれど、私の頭の中にあるのは、さっきまでいた劇場のことだった。
「どうしたの」
母様が私を見下ろす。
私は少しだけ考えてから、口を開いた。
「レーナ。大丈夫かな」
あんなに苦しそうにしていたのに最後には、不思議なくらい穏やかな顔をしていた。
まるで、ずっと体に纏わりついていた何かが、ようやく取れたみたいに。
でも。
──あの穏やかな顔を、私はどう受け取ればいいのだろう。
良いほうに考えるなら、ようやく心の重荷を下ろして、役者を続けると誓った。
悪いほうに考えるなら、役者を辞める決心がついた。
そういう可能性だってある。
どちらも、あの表情には当てはまってしまう。
それが、不安だった。
私の余計な一言が、最悪の未来を引き寄せてしまったのではないかと。
「大丈夫よ」
優しい声。母様は自信を持って、そう言った。
「本当に?」
「ええ」
私の不安を吹き飛ばす。
私よりも長くレーナを見てきた母様が言うのだから、大丈夫なのだろう。
さっきよりも心が軽くなり、私は小さく息を吐いた。
レーナがこれから何を選ぶのかは、レーナ自身が決めること。
私はただ、その選択を応援すればいい。
色んな店に目移りしながら歩いていると、向こうから歩いてくる男性に気が付いた。
仕立ての良い服を身に纏い、堂々とした足取りでこちらへ向かってくる。
体型はかなりふくよかで、横に大きい。
お腹もぽっこりと前に出ていて、歩くたびに体が揺れている。
けれど、本人はそんなことなど気にしていないらしい。
むしろ、自分がこの場で一番偉いとでも言わんばかりに、胸を張って歩いている。
見慣れない服装から、他国の貴族なのだろう。
私は、その人の後ろにいる少女に目が釘付けになった。
ボロボロの衣類。外を歩いているのに靴を履いていない。
腕も足も傷だらけ。
ふさりとした毛に覆われた、長くて白い耳。
足元に目を向けると、アスファルトに落ちた影が目に入った。
そこには、長い耳とお尻からちょこんと突き出した、丸い尻尾の影が映っていた。
──ウサギ?もしかして、半獣?
初めて見る姿に、思わず目を輝かせるも、目の前の現実に胸が締め付けられた。
細い首。
そこには、鉄製の首輪がつけられていた。
首輪から伸びた細い鎖を、男性が握っている。
私は思わず足を止めた。
多くの視線が少女に注がれる。
長い耳がピクリと動く。
私と目が合った瞬間、怯えたように視線を逸らした。
「おい!何を立ち止まっている!!さっさと歩かんか!!」
男性が鎖を強く引いた。細い体が大きくよろめく。
少女は踏ん張ることもできず、足をもつれさせ、そのまま地面へ倒れ込んだ。
鎖が、じゃらりと音を立てた。
「チッ。このグズが!!お前が夜の相手が嫌だと言うから、仕方なくこうして荷物持ちをさせてやっているというのに!!」
男性が手を掲げる。次の瞬間、水が細く伸び、一本の帯へと変わった。
水魔法。
まるで意思を持つ鞭のようにしなったそれが、容赦なく少女の体へ叩きつけられる。
命を命とも思わず、物のように扱う男性。
──この世界には、奴隷制度があるのか。
前世では、奴隷なんて歴史の中の話だった。
もちろん、この世界のことを私は完全に知っているわけではない。
前世の常識が、そのまま通用するわけもなかった。
もし、これがこの世界で普通に認められているものだとしたら。
私は、そんな現実を知らないまま、この世界で暮らしていたことになる。
無知は罪だと、父様も言っていた。
知らなかったから仕方ない。
それは言い訳だ。通用しない。
知ろうとしなければ、何も知ることは出来ない。
目の前で起きていることを、この世界ではそういうものなのだ、と受け入れてしまえば、それで終わってしまう。
「(プロクス。聞こえる?力を貸して)」
明確な怒りが、私の胸の奥から込み上げてきた。
奴隷制度がルールだったとしても、やっぱり私には受け入れられない。
あんな理不尽を見て見ぬふりするなんて、無理に決まっている。
手の甲に浮かび上がる、プロクスの魔法陣。
赤い魔力が、ゆっくりと滲み出す。
それは次第に勢いを増し、私の腕を這うように広がっていく。
父様のときと同じだ。この魔力は、私以外には見えていない。
母様から手を離して、彼女の元に歩み寄る。
突然、幼い少女が目の前に現れた。
あまりにも場違いな存在なのか、男性は思わず手を止めた。
「……何だ、お前は」
不愉快そうに眉をひそめる。
私は答えない。
一瞥しただけで、その男性から視線を外す。
そして、目の前にいる少女へと向き直った。
プロクスの魔力を纏った手で首輪に触れた。
高熱の炎が一瞬にして鉄を赤く染め、そのまま跡形もなく溶かしていく。
鎖が、じゃらりと地面へ落ちた。
何が起きたのかわからない。そんな表情だった。
「これでもう自由だよ」
少女は恐る恐る、自分の首へ手を伸ばす。
指先が触れたのは、いつもそこにあったはずの冷たい鉄ではなかった。
何もない。
何度も確かめるように、細い指が首筋を撫でる。
それでも信じられないのか、落ちた鎖へ視線を向けた。
地面に転がる鎖。
そして、自由になった自分の首。
それなのに、喜ぶ様子はない。
むしろ、怯えたように身体を縮こませる。
自由になったはずなのに。
少女は、逃げようとしなかった。
逃げてもいいということを、知らないのかもしれない。
「家族の待つ、お家に帰れるよ」
縛るものはない。自分の足で、好きな所に行ける。
「な……何をしている!このガキ!!」
背後から荒々しい声が響き渡った。
少女の長い耳がぴんと立ち、反射的に肩を竦めた。
「貴方こそ。私の娘に何をするつもりかしら?」
巨大な魔力を放出させながら、一歩、また一歩と近づく。
風が吹き抜け、母様の髪と衣服が大きく揺れた。
男性の顔から血の気が引いていく。
周囲にいた人々も、息を呑んで立ち止まった。
圧倒的な魔力。
それだけで、誰もが理解する。
この人に手を出してはいけない、と。
母様は、私と少女を庇うように立つ。
そこでようやく、母様の顔を認識したのか、男性は目を見開いた。
先ほどまでの威勢が消えていく。
「テロイ公爵夫人」
男性の額から、汗が一筋流れ落ちる。
何度も背中を折り曲げ、地面に頭がつきそうなほど深く頭を下げていた。
この感じ。イヤール伯爵と同じだ。
相手によって態度を変えて、自分より下の人間になら、何をしてもいいと信じている。
さっきまで、あんなにも偉そうにしていたのに。
母様が誰なのかを知った途端、まるで別人のように怯えている。
「まさか、公爵家に娘がいたなんて」
男性が、ちらりと私を見る。
驚きの眼差しを向けてくるのも当然だ。
テロイ家の子供は息子が二人。養女である私の存在が、そう簡単に他国まで知れ渡るとは思えない。
「し、しかし。夫人。この獣人は私が金を払って買ったものです。私の所有物をどう扱おうと……」
「所有物?」
聞き捨てならない言葉に、首を傾げた。
一体どこに、“物”があるというのか。
目の前にいるのは、人間とは異なる種族ではあるものの、私と同じように感情を持ち、言葉を話し、痛みを感じる女の子だ。
命ある者は等しく、人である。
子供でも知っていることを、この人はわからないのだ。
それとも、お金を払ったから自分の物。
自分の物だから好きにしていい。
彼女の痛みも苦しみも無視して。生かすも殺すも気分次第。
もしも、この人が「もういらない」と言えば彼女の命はそこで終わる。
「正式な手続きを踏まえて、権利を得たのでしょうね」
「ええ……ええ!!売買契約書をご覧になりますか!?」
男性は、待っていましたとばかりに声を上げた。
まるで、それさえあれば自分の行いが正しいと証明できるかのように。
懐から慌てて書類を取り出し、母様へ差し出す。
そんな貴重な書類を持ち歩くなんて。
出掛け先で、こういった場面になってもいいように、常に持ち歩いているのだろうか。
権利を疑われたときの、証明書として。
母様がじっくりと書類に目を通していく。
隅々まで確認しているようだった。
やがて、母様が静かに書類を閉じる。
どこにもおかしなところはない。
偽造されたものでもなければ、紛れもなく本物。
この男性が、彼女を買ったことを証明する、正式な書類。
「それで?」
書類を突き返しながら、母様は冷ややかな声で問いかけた。
「我が国は奴隷を禁止しているわ。それなのに、堂々と連れ歩くなんて」
男性の顔が、ぴくりと引きつった。
逃げ道を探そうと視線が宙を彷徨う。
「貴方がどこの国で、どのような手続きを踏んでこの子を手に入れたのかは知らないけれど、その権利はここでは認められていないわ」
「そ、れは……」
「それとも。貴方の行いは宣戦布告かしら?いずれ、この国の民を奴隷にしてやる。そういった意思表示と受け取っていいのかしら」
男性の顔から、完全に血の気が引いた。
酸素を欲するように、口がぱくぱくと動く。
たった一言。「違う」と言いたいのに、母様が放つ魔力がそれすら許さない。
喉が震える。声を出そうとしても、息が詰まる。
ついには立っていられなくなり、膝から崩れ落ちた。
両手を地面につき、必死に体を支える。
「はぁ……っ、はぁ……」
浅い呼吸を繰り返す。
先ほどまで、あれほど堂々と胸を張っていた男性の姿は、もうどこにもなかった。
自分よりも強い人を相手にしてこなかったからこそ、対処の方法がわからない。
圧倒的な魔力に勝てるはずもなく。為す術がないまま、屈辱を味わい続ける。
母様も人が悪い。彼が喋れないとわかっているのに、魔力放出をやめないのだから。
普段は優しいのに、怒ると怖い。
感情をむき出しにしないところが特に。
怒鳴るわけでもない。睨みつけるわけでもない。
ただ、淡々と相手を追い詰めていく。
本当に怒っている人は、笑顔を崩さないと誰かが言っていたような……?
そろそろ弁解の余地を与えてもいいのではないだろうか。
テロイ家の威光は、もう充分に見せられた。
母様が本気で怒れば、相手がどれだけ偉そうな貴族であろうと、こうなる。
それを身をもって理解させたのだから、これ以上このままにしておいても意味がない。
むしろ、いつまでも魔力を浴びせ続けていたら、話を聞くどころではなくなってしまう。
母様が魔力を抑える。
途端に、男性が大きく息を吸い込んだ。
勢いよく上げられた顔は涙目で、まだ全身で恐怖しているのがわかる。
「わ、私は決して……夫人が仰ったことをしようとしているわけではなくて……」
「そう。それなら……」
母様は彼女をそっと抱き寄せた。
「この子は私達が保護してもいいということかしら?」
あ、なるほど。
大量の魔力をぶつけたのは脅迫、もとい、交渉を円滑に進めるパフォーマンスだったのか。
効果は抜群。
貴族の中でも力ある者にしかなし得ない、必殺技みたいなもの。
男性は青ざめた顔で、母様の腕の中にいる少女を見つめている。
安くはない買い物。簡単に手放せるはずもない。
何度か口を開きかけては閉じた。
どうやら、断るという選択肢が自分に残されているのか、真剣に考えているらしい。
──残されていると思っているのかな。
優しい強迫であると、気付いているはずなのに。
母様は何も言わず、ただ返事を待っている。
その静けさが、かえって怖い。
やがて男性は、諦めたように肩を落とした。
「……はい」
小さな声だった。
母様が微笑む。
「そう。ありがとう、この子の代金はテロイ家まで取りに来てくれるかしら?」
「い、いえ!そんな!!差し上げます!!私には必要ありませんので!!」
売買契約書を母様に押し付けて、風の速さでいなくなった。
意外にも軽快な足取りに、私は感心していた。
家に来たら、父様と顔を合わせることになるかもしれない。
その恐怖は、今と比べ物にならないのだろう。
父様はトップクラスのイケメンで、睨まれたら大抵の人は一瞬で萎縮してしまう。
彼のような人なら尚更。
しかも、あの整った顔で無言のまま見下ろされるのだ。
怒鳴られるより怖い。
ただ黙っているだけなのに、妙な威圧感がある。
きっとあの男性も、家まで来て父様と顔を合わせるくらいなら、今日ここで全てを手放したほうがマシだと思ったのだろう。
……うん。私でも、そうするかもしれない。
遠巻きに見ていた野次馬達も、何事もなかったかのように再び歩き出していく。
改めてテロイ家のすごさを目の当たりにした。といった感じで。
さっきまであれほど騒がしかった大通りが、まるで何事もなかったかのように元の喧騒を取り戻していく。
そんな様子を眺めていると、腕の中にいる少女と目が合った。
まだ不安そうな顔をしている。
無理もない。
突然、自由になったと言われても、すぐに信じられるはずがないのだから。
それだけの歳月、苦しんできたのだ。
私は少女に向かって、できるだけ安心させるように笑った。
「これで本当にもう、大丈夫だよ!」
時間をかけて言葉の意味を理解して、ゆっくりと頷いた。
まだ戸惑いはある。
無意識に震える体は、恐怖が刻み込まれた証。
奴隷という身分から解放されても、すぐに自由になれるわけではない。
長い耳が、周囲の音に反応して小さく動く。
誰かが近くを通るたびに、体がびくりと震えた。
些細なミスでも、何度も叱られてきたのだ。
水の鞭で体を叩かれて。「痛い」と口にすることすら、許されない。
耐えて耐えて、そうしていつしか、逃げたいと思うことを諦めた。
「おうちに帰ろ?」
そう言って、私は少女へ手を差し出した。
「おうち?」
声、めっちゃ可愛い。
思わず、じっと少女の顔を見つめてしまう。
長い耳も、ふわふわの白い毛も可愛いけれど、声までこんなに可愛いなんて。反則すぎない!?
母性本能がくすぐられてしまう。
取り乱すなんて、はしたない真似はせずに、凛とした態度で接する。
「そうだよ。貴女のおうち」
少女は私の手を掴む気配がない。
警戒されているわけではなかった。
悲しみに伏せられた目はすぐに開かれた。
「帰る家は……ないの」
「どうして。だって」
「私は……半獣だから」
帰る家がない。そんな現実を当たり前のように受け入れていた。
それが、たまらなく悲しかった。
家族の元へ帰ることが当たり前だと思っていたのは、私が温かい場所に守られているからだ。
自分がどれほど恵まれた世界にいて、この子の生きる現実を何も知らなかったのかを思い知らされて、痛烈な恥ずかしさと申し訳なさが込み上げてくる。
どんな言葉をかけるべきか迷っていると、少女はぽつりと続けた。
「半獣は獣人と違って、人間との混血なの」
人間と獣人の間に生まれた子供。
たったそれだけの理由で、この子はどちらの居場所も失った。
でも、その考えもまた、私の常識であり、この世界の常識ではない。
私がおかしいと思うことが、ここでは当たり前であることもある。
前世の常識だって、時代や場所が変われば、簡単に覆るものだった。
だから、この世界の価値観を知らない私が、一方的に間違っていると決めつけられない。
詳しいことを言いたくないのか、言葉を濁して俯いてしまった。
本人が言いたくないのであれば、無理に聞き出すことはしない。
「帰る家がないなら……私達の家においで」
少女が弾かれたように顔を上げた。
丸い目を見開き、信じられないものを見るように私と母様を交互に見つめている。
「いいよね、母様」
「ええ、もちろんよ。ただ、リミックの許可は取らないと」
それもそうか。
屋敷で暮らす人が一人増えるのだから、父様にも話しておかないと。
私と母様だけで決められることではない。
父様はテロイ家の当主で、屋敷の主でもあるのだから。
──まあ、父様なら反対はしないと思うけど。
「行こう?」
私はもう一度、少女へ手を差し出した。
少女は伸ばしかけた手を途中で止める。
指先が小さく震え、やがてその手は胸元へと戻っていった。
両手をぎゅっと握り合わせる。
俯いたまま、決して私と目を合わせようとしない。
私と視線が重なりそうになると、すぐに逸らしてしまう。
「大丈夫」
安心させるように、私は微笑んだ。
「怖くないよ」
それでも、少女はすぐには動かなかった。
胸の前で握り締めた手が、小さく震えている。
これまで、得るべき権利を奪われてきたのだ。
意志を持つことは許されず、道具として扱われる日々。
私の手を取ることは、少女にとって簡単なことではない。
それでも。
胸の前で握り締めていた手をほどいて、私へ向かって伸ばした。
細い指先が私に触れる。
少女は小さな勇気を振り絞るように指を動かした。
恐る恐る、壊れ物に触れるように、少女の小さな手が、私の手を握った。
あまりにも弱い力だった。
まるで、これが許されることなのか、確かめるように。
私はその手を、そっと握り返した。




