支援します
翌日。
再び、劇場に足を運んだ。
二日連続のデート。
それを聞いたときの父様はひどく落ち込んでいた。
「次の休みは……」と、何やら意気込んでいたことから、土燿は母様とデートをするのだろう。
安心してね、父様。二人の邪魔は絶対にしない。
私は大人しく、お兄ちゃん達と留守番をしているからね。
──思う存分、母様とのデートを楽しんで!!
今日の公演は休み。
昨日とは違い、劇場の前に止まっている馬車は一台もない。
昨日は多くの観客で賑わっていたロビーも、今日はひっそりとしている。
照明も必要最低限しか灯されていない。
舞台の上にも人影はなく、客席も静まり返っていた。
同じ場所なのに、昨日とはまるで別の場所みたい。
そんな静かな劇場に、昨日の役者達が勢揃いしていた。
けれど、昨日とは雰囲気が少しだけ違う。
上手く言えないけど、レーナは一歩下がっていた。
「せっかくの休みなのに、集まってもらってごめんなさいね」
「い、いえ。そんな……!!」
支援者が決まる。そのことを、みんな理解していた。
「公爵夫人。一ついいですか」
「ええ。何かしら?」
レーナが声をかけると、一瞬にして空気が変わった。
特に、私が選んだお姉さんは悲しそうな表情を浮かべている。
そんな彼女を見て、レーナは静かに口を開いた。
「支援者はこの、メレこそ相応しいと思います」
この空気の正体は、これだったのか。
観客だけではない。団員達でさえ、レーナこそ支援を受けると思っていたのだ。
それほどまでに、彼女はこの劇団の中で特別な存在なのだろう。
本人でさえ、そのことを疑っていなかった。
昨日、私達が帰った後で何があったのかはわからない。
でも、レーナが支援を受けるつもりがないことだけは、わかった。
「昨日の舞台をご覧になったのであれば、おわかりになると思います」
「そうね。メレの歌声は、聴く人の心に届いたわ」
母様の言葉に、メレが俯いた。
褒められているのに、嬉しそうではない。
むしろ、申し訳なさそうにしている。
自分の才能が認められるなんて、この上なく名誉なことなのに。
メレは、まるでそれを望んでいなかったかのように、固く唇を結んでいる。
「歌うことが大好きで、たった一瞬でも、舞台に立てることを幸せに思うメレは、もっと大舞台で活躍するべきです」
レーナに迷いはなかった。
「私よりも、彼女のほうが支援を必要としています」
そう言って、レーナは一歩を踏み出した。
そして文字通り、メレの背中を押した。
不意を突かれたメレが、よろけながらも前に出る。
昨夜、母様から支援の意味を聞いた。
劇団への寄付だけではない。
支援を受けた役者は、王都にある劇場へ移り、そこで新たな舞台に立つことになる。
王都の劇場では、魔道具や魔法を使った演出も取り入れられている。
舞台を包む照明の色を自在に変えたり、何もない空間に景色を映し出したり。
時には魔法によって風や水を生み出し、物語に合わせて舞台そのものを変化させることさえあるという。
ここでは想像するしかなかったような演出が、王都では当たり前のように行われている。
それだけに、そこで舞台に立てるということは、役者にとって大きな意味を持つ。
選ばれし者だけが立つことの許される、まさに夢の舞台。
そして何より。
王都の舞台で実力を認められれば、外国の劇場から招かれることもある。
この国を飛び出し、異国の舞台に立つ。
それは、役者にとって誰もが夢見る、大きな栄誉なのだろう。
他者を蹴落としてでも、手に入れたい名誉。
それなのに、レーナは曇りなき瞳で母様を見つめては、メレこそが支援を受けるに相応しいと強く言い切った。
「貴女は本当にそれでいいの?」
「はい」
母様の問いに、迷うことなく答えた。
未練がないとでも言うかのように。
──本当にそうなのだろうか。
王都の舞台に立つことに、何の憧れもない?
外国の劇場から声がかかる可能性に、心が動かない?
そんなこと、あるはずがない。
舞台に立つ者なら、いや。立つ者だからこそ、目標にするのだ。
だからこそ、レーナが夢を手放そうとしていることが信じられない。
レーナは特別だ。
歌も演技も、舞台に立つための全てを身につけている。
それは、誰よりも努力を重ねてきたからこそだ。
歌声だけでなく、仕草一つ、表情一つにまで宿る確かな表現力。
レーナは、間違いなくこの劇団の中心にいる。
だからこそ、母様の目にも止まった。
支援を受けるに相応しい役者として、最有力候補に選ばれたのだ。
それは、努力の証。レーナの努力が実力として認められたということだ。
でも……。
メレは何もないところから、人の心を動かす。
短い一曲で、劇場の空気をかえてしまう。
それは、努力だけでは手に入らないもの。
どれだけ手を伸ばしても、決して得られるものではなかった。
生まれ持った才能。
人を惹きつけ、心を奪う、圧倒的な何か。
その才能に名前を付けるとしたら、それはーー“天才”
「公爵夫人。メレこそ、王都に行くべき存在です」
「ま、待って下さい。私は……」
ずっと俯き加減だったメレが、勢いよく顔を上げて口を開いた。
「レーナさんが選ばれるべきです!私のような入ったばかりの新参者が、レーナさんを差し置いて王都に行くなんて……」
ああ、そういうことか。
メレのあの態度は、レーナを差し置いて自分が選ばれることを懸念していたのだ。
その理由はきっと、メレがこの世界に入ったきっかけにある。
憧れていたのだろう。
光り輝く舞台に立つ、レーナに。
「公女様に聞かれて、わかってしまったんです。私は…」
悲しげに伏せられた目。
「歌うことが……楽しくないんです」
ぽつりと零れた言葉に、誰も何も言えなかった。
群青色の瞳が涙に濡れ、震える手が顔を覆い隠す。
堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「楽しかったはずなのに。歌うことが、大好きだったはずなのに……」
大粒の雫が零れた。
レーナは涙を拭おうともせず、俯いた。
「いつの間にか、歌うことよりも……期待に応えることばかり考えるようになっていました」
大好きだったものを嫌いになりたくなくて。
でも、辞めることも許されなかった。
歌うことが好きだと言えば、もっと歌うことを求められる。
期待に応えれば応えるほど、周囲の期待は大きくなっていく。
逃げたくても、逃げられない。
大好きだったはずの歌が、いつしか自分を縛るものになっていた。
息苦しい世界。呼吸の代わりに歌い続けるだけ。
「求められて、期待されて。そうしていくうちに、いつからか。王都に行くためだけに、歌うようになっていた」
ずっと隠されてきたレーナの本音。
涙を流すその瞳には、誰も映らない。
苦しい。助けて。
そんな言葉を飲み込んで、支援者に選ばれるためだけに、舞台に立ち続けた。
笑顔を浮かべて。歌声を響かせて。誰よりも完璧な役者で在ろうとして。
見えない鎖が、心や感情を縛る。
いつしか、抱いていた夢さえ歪んでしまった。
色褪せてしまった世界に、もう未練はない。
そう、レーナは呟いた。
その言葉が、胸に突き刺さる。
役者である自分自身を否定するような、レーナの言葉。
それはまるで――
もう、舞台に立ちたくない。役者でいたくない。
そう告げられているように聞こえた。
「公爵夫人。これまで贔屓にして頂き、ありがとうございました」
これまで語った本音を覆い隠すかのように、レーナは笑った。
偽りの笑顔。
「メレ。貴女は全力で夢を追いかけなさい」
「あら。私はレーナを支援するつもりよ?」
「……え?」
完璧に作られた笑顔が崩れた。
「し、しかし。テロイ家はメレを支援するのでは…」
レーナの声が震えた。
さっきまでの迷いのない表情は、もうどこにもない。
何を言われたのか理解できない。そんな顔をしている。
「多くの人は勘違いしているようだけど。支援者は一人じゃなくてもいいのよ」
「で、でも……」
レーナの反応から、これまで貴族が支援者に選んできたのは常に一人だけだったのだろう。
支援を受けられるのは、役者だけではない。
歌や演劇はもちろん、絵画や彫刻、音楽など。
芸術に携わる者であれば、誰であっても支援を受けることが出来る。
つまり、支援する人数に制限などないのだ。
ただ、その貴族が支援したいと思える者が、これまでたまたま一人だった。
それだけのこと。
それが何度も続いたことで、いつしか「支援者に選ばれるのは一人」という認識が、暗黙の了解として広まっていったのだろう。
だから、レーナもメレも勘違いしていた。
もしも、その勘違いから支援者の立場を譲ると言っているのなら、そんな必要はない。
そう言いたいのに、声は出なかった。
だって……。だってレーナは、歌うことが嫌で、大好きなものから逃げたいのだから。
支援を受けてしまえば、今以上の苦しみに縛られる。
深みにはまったら最後、助かる術はない。
底なし沼に足を取られたように、もがけばもがくほど沈んでいく。
逃げようとしても、逃げられない。
ただ、ゆっくりと自分の心が沈んでいくのを、待つしかない。
王都へ行って、期待されて、応え続ける。
その先に待つものを想像したのか、レーナの肩が小さく震えた。
「公爵夫人のお気持ちだけ、受け取っておきます」
弱々しい笑顔。
それは、昨日まで舞台の上で見せていたものとは、あまりにも違っていた。
レーナの素顔だった。
「決められた人のためにしか歌わない私の歌は、誰の心にも響かない。舞台に立つ資格すら、ないのです」
レーナは自分の手を見つめた。
あの手の中には、これまで積み重ねてきたものがある。
けれど今のレーナは、それらすべてを握り潰すように、指を強く握りしめていた。
もう何も残っていない。そう、自分に言い聞かせるように。
レーナは、歌を捨てた。
目の前に掴みたい夢があるのなら。私はそれを、諦めてほしくない。
そんな気持ちが、私の足を動かした。
レーナの前まで歩み寄る。
逸らすことなく、真っ直ぐ彼女を見つめた。
「じゃあこれからは、自分のために歌うといいよ」
「え……?」
「誰かじゃなくて、歌が大好きな自分のために、歌えばいいんだよ」
「公女様。私は……」
「だってレーナは、まだ本当に歌を嫌いになったわけじゃないでしょ?」
レーナの瞳が、大きく揺れた。
その反応だけで、答えは充分だった。
私は勘違いをしていた。
レーナは、歌を嫌いだと言っていない。
歌うことが楽しくない。
大好きだったはずの歌が、いつの間にか苦しくなってしまった。
それを私は、楽しくないから嫌いになったのだと思い込んでいた。
でも、違う。
歌そのものを嫌いになったわけではない。
歌うことに纏わりついた期待や責任が、苦しくなっただけだった。
まだ、大好きな気持ちは残っている。
「それでも。歌うことが苦しいなら、少しの間、お休みしよ?」
無理に歌わなくていい。
鉛のように重たくなった心が、溶けて軽くなるまで。
歌いたいと思えるその日が来るまで、ゆっくり休めばいい。
「そ、そんな、こと……。許されない」
「なぜ?」
母様の手が、レーナの頬に触れた。
聖母さながらの微笑み。
「歌わないことが、許されないのかしら?」
「だって、そんな……。公爵夫人の顔に泥を塗るような真似だけは……」
舞台に立たないのは、支援をしてくれた相手を裏切る行為。
平民が貴族の厚意を踏み躙る。
「まあ」
小さく笑う。
「私の顔に泥を塗る?」
レーナが、おそるおそる顔を上げた。
母様は、変わらず穏やかに微笑んでいる。
「貴女が少し休んだくらいで、私の顔に泥が塗れるのなら……」
その指先が、そっとレーナの涙を拭う。
「それは、随分と薄っぺらい顔なのね」
母様の声に、氷のような冷たさが混じった。
心臓が大きくはねた。
その瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜ける。
公爵夫人としての威厳が、場の空気を支配した。
「私は貴女の歌が好きよ。魅せる演技も。最初から、貴女を支援すると、決めていたわ」
──最初から。
母様は初めて見たときから、決めていたのだ。誰を支援するかを。
完璧だったからではない。
純粋に歌うことが大好きで、何にも臆することなく舞台に立つレーナに、強く惹かれた。
「貴女を支援するのは、歌いたいと思ったとき、いつでも戻ってこられるように地盤を固めるためよ」
母様の声は、もう冷たくなかった。
その声を聞いた瞬間、レーナを縛りつけていた鎖が、音もなく断ち切られたような気がした。
頑張らなくていい。
誰かのために、無理をする必要もない。
肩の力を抜いて、時には立ち止まってもいい。
苦しいのなら、そこから離れていいのだ。
逃げることは、悪いことではない。
生きること以上に、大切なことはないのだから。
この支援は、夢を叶えることを強いるためのものではない。
苦しいときには立ち止まっていい。
逃げたっていい。
そしていつか、もう一度夢を追いたいと思ったときに、帰ってこられる場所を残しておくためのもの。
夢を諦めさせないための支援だ。
「レーナの人生はレーナだけのものだよ。だからね」
素直な、私の言葉で伝えた。
「今はもう、頑張らなくていいんだよ」
伝わっただろうか?
見開かれた目は、驚きに揺れていた。
それでも、視線が私から外れることはない。
「頑張らなくて、いい……?」
小さな声が返ってきた。
揺れる瞳は、まだ不安定で。
言葉を選ぶことに、これほど緊張したのは初めてだった。
一つ間違えれば、今度こそレーナの心を深く傷つけてしまう。
だからこそ、慎重に言葉を選ぶ。
「鳥……。そう!鳥だって疲れたら羽を休めるでしょ?」
自分で言いながら、伝わるかどうかと不安に駆られる。
こんな例えでいいのだろうか。今のレーナにとって、歌はそれほど簡単なものではない。
余計なことを言ってしまったかもしれない。
そう思うと、続く言葉が喉につかえた。
私が不安に思う暇もなく、レーナはただ、無言で続きを待っている。
急かすことも、問いかけることもなく。
ただ、縋るような瞳で私を見つめていた。
まるで、この先に続く言葉だけが、自分を救ってくれると信じているように。
そんな目を向けられて、適当なことなんて言えるはずがなかった。
喉がひどく渇く。
それでも、言わなくてはいけない。
「レーナにとって、歌は翼なんだよ。どこまでも遠くへ飛んでいくための、大切な翼」
緊張が張り詰めた表情には、幾つもの感情が入り交じっていた。
何かを求めるように私を見つめているのに、すぐに視線を逸らしてしまいそうな危うさがある。
まるで、伸ばしかけた手を途中で引っ込めるように。
信じたい。
けれど、信じることが怖い。
そんな相反する感情が、レーナの瞳の奥でぶつかり合っているように見えた。
やがて、固く結ばれていた唇が、僅かに震える。
「公女様は、メレを支援者に選んだのではないのですか?」
先ほどまでの、何もかも諦めたような表情とは違う。
群青色の瞳の奥に、微かな光が灯った。
それは、消えかけた蝋燭の火のように頼りない。
「うーん」
私は腕を組んで考えた。
どう説明すればいいんだろう。
前世でも、音楽は聴く側だった。
今世だって、こうして本格的な舞台を観るのは初めて。
みんな、本当にすごかった。
歌が上手いとか、演技が上手いとか。そういうことを判断できるほど、私は詳しくない。
ここは小説の世界なので、現実よりも多少は華やかさを演出しているだろうけど。
衣装も、舞台装置も、照明も。
何もかもが華やかで、息をするのも忘れてしまいそうになる。
舞台の上で人が歌い、演じている。
ただそれだけのはずなのに。
目の前で起きている出来事が、あまりにも現実離れしていて、私は最初から最後まで圧倒されっぱなしだった。
まるで別の世界を、そのまま覗き込んでいるような感覚。
今なら演劇にハマる人の気持ちがよくわかる。
舞台の上で輝く役者を見て、この人が好きだと思う。
何度もその人の舞台を観に行って、もっと知りたいと思う。
──なるほど。
これが、推しというものなのか。
そう考えると、少しだけ納得できた。
「強く印象に残ったからメレを選んだだけだよ」
「それだけ、ですか?」
「うん。そうだよ」
支援のことを抜きにしても、心を掴まれたのは確かだ。
メレの歌声を聴いた瞬間、もっと聴いていたいと思った。もっと多くの人に、この歌を聴いてほしいと思った。
それは、支援する側としての判断なんかじゃない。
ただの一人の観客として、純粋に心を動かされたのだ。
「だから、えっと。何が言いたいかというとね」
もはや、レーナだけではない。
全員の視線が私に集中していた。
そんなに期待されても、立派なことを言うわけではない。
思ったことを素直に口にするだけ。
昨日、舞台を観て。思ったこと。それは……。
「みんなすごかった!!って、こと」
難しいことなんて、何も考えていない。
つい、声が大きくなってしまった。
みんながポカンとしている。変なことを言った覚えはないのに。
子供らしい、素直な感想じゃないかな?
「本当にすごかったよ?」
聞こえていない可能性もあるので、もう一度言ってみる。
でも、反応は変わらない。
どうやら、ちゃんと聞こえていたそうだ。
演劇は面白かった。
前世では味わったことのない空気感に包まれるのは楽しかった。
舞台の上で物語が生まれて、役者達の声や表情が、客席まで真っ直ぐと届いてくる。
ただ座って観ていただけなのに、まるで自分までその世界に入り込んだような感覚になった。
だから、きっと。みんなにも、この気持ちを伝えたかったのだと思う。
……思うのだけど。
今になって、猛烈に恥ずかしくなってきた。
「みんなすごかった!!」
なんて。
貴族の、それも公爵家の娘が、大勢の大人達を前にして叫ぶことだろうか。
子供だから許されるなんて、考えてはいけない。
私は芸術について造詣が深いわけではない。
演劇の良し悪しを語れるほど、知識もなかった。
それなのに。あたかも、自分がこの道に精通しているかのように、言い方をしてしまった。
──うう。恥ずかしい。
顔に熱を帯びる。
みんなの注目を浴び続ける勇気はなくて、私は逃げるように母様のところまで駆け寄ると、その足元に隠れた。
母様のドレスをぎゅっと握りしめる。
ひょっこりと顔を出して、周囲の様子を伺う。
まだみんな、こちらを見ていた。
目が合う。
私は何も見なかったことにして、すぐさま顔を引っ込めた。
そして、母様の背中にぴたりと隠れる。
……無理。恥ずかしすぎる。穴があったら入りたいよ。
お願いだから、もう忘れてほしい。
──さっきの私の発言を、今すぐ記憶から消してくれないかや。
そんなことを願いながら、私は母様のドレスを握る手に、さらに力を込めた。
「もし……」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
その中で、レーナが小さく口を開いた。
「もしも。私がまだ、歌を歌いたいと言ったら、公女様は……」
その先は続かなかった。
レーナは何かを言おうとして、唇を開く。
でも、言葉が声になることはない。
私は、恐る恐る母様の陰から顔を出した。
レーナの顔を、そっと覗き見る。
そこに浮かんでいたのは、自嘲するような笑みだった。
「いえ。何でも……」
「待つよ!!」
気が付けば、飛び出していた。
考えるより先に、言葉が口から零れていた。
歌いたい。歌いたくない。
役者を辞めたい。もっと舞台に立ちたい。
夢を捨てた。まだ諦めたくない。
どちらか一つではない。どちらも、レーナにとって紛れもない本音だった。
歌いたい。けれど、歌うことが苦しい。
その矛盾を抱えたまま、レーナは立ち尽くしていた。
「私だけじゃない。母様も、ここにいる人もみんな、レーナのことを待っててくれるよ」
母様は目を細めて微笑んだ。
その微笑みはあまりにも慈愛に満ちていて。
もし今、母様の背後に後光が差していたら、私はきっと女神が舞い降りたのだと錯覚していただろう。
それほどまでに、神々しかった。
メレや団員達も、力強く頷いた。
目が合うと、優しく微笑む者もいる。
申し訳なさそうに目を伏せる者もいれば、涙を堪えるように唇を結ぶ者もいた。
それでも最後には、みんなレーナに向かって頷く。
言葉にしなくても、伝わってくる。
今までのことを悔やんでいること。
そして、これからはレーナの気持ちを大切にしたいと思っていること。
世界は、自分が思っているほど冷たくなんかない。
だって私が、そのことを知っている。
孤独の中で生きていくのだと思っていた私を、祖父母は引き取ってくれた。
失ったものの大きさに、心が追いつかないまま。
それでも祖父母は、返せないほどの愛を、惜しみなく注いでくれた。
友達も、たくさんのものを私にくれた。
特別なことをしてくれたわけじゃない。
ただ、傍にいてくれた。
たったそれだけと、人は笑うかもしれない。
けど、私にとってはその何気ない日常こそが、特別だった。
もう戻ることのできない日々だからこそ、今でも忘れることはない。
だから私は、レーナにも知ってほしい。
誰かに支えてもらうことは、決して恥ずかしいことじゃない。差し伸べられた手を、掴んでもいいのだと。
私はレーナを見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「レーナ。世界は、貴女が思うよりもきっと、優しいよ」




