閑話②【エミィレ】
お母様は体が弱かった。元々、病弱でもあったため私を産んでから体力が格段に落ちて、屋敷の外にはあまり出られない。
薬を毎日飲めば、症状は緩和されるものの、お金に余裕がない我が家では、高額の薬を買えるはずもなかった。
家にある物を売って工面しても、毎日なんてとても無理だ。
最初のうちは親戚の人が力になってくれていたけど、月日が流れると共に、これ以上の支援は難しいと謝るばかり。
それでも、これまでに貸したお金を返すのはいつでもいいと言ってくれた。
返済が見込めない貧乏子爵に銀行はお金を貸してくれない。
それでも、お母様の薬は必要だった。
残された選択肢は、誰かから借りることだけ。
でも、その借りた相手が悪かった。
人の良さそうな顔でお父様に近づいてきたその人は、お金を貸して1年が過ぎた頃から豹変した。
返済期限はとっくに過ぎているから、全額返すように言ってきたのだ。
返済期限はいつでもいいと約束しただけではなく、お互いの署名が入った借用書も作った。
サインをする前にお母様も一緒に内容を確認したから、見逃すなんてありえない。
「返す金がない?こっちも慈善事業をやってるわけじゃないから、きちんと返してもらわないと困るんだよ」
土足で屋敷に足を踏み入れた男性は、ソファーにふんぞり返りながらお父様を床に座らせた。
「俺が貸した金で、奥様は良くなった。いやー、めでたいめでたい。で?命の恩人に対して、子爵様は恩を仇で返そうってわけか」
「違う!!そんなつもりは……。だが、本当に返せないんだ」
「ほうーー。まぁ、嘘じゃなさそうだ。皇太子様のパーティーにあんな時代遅れのドレスを買うくらいだしな」
男性は終始、ニヤニヤとバカにしたような笑みを浮かべている。
吐き出される言葉は冷たく、ナイフのように形を変えて心を深く刺した。
貴族令嬢が何年も前に流行ったドレスを着ることがいかに恥ずかしいことかなんて、言われなくても知っている。
でも!!あれは私が選んだ。
お母様がお祖母様から譲り受けた宝石を売れば流行りのドレスは買えると言ってくれたけど、私はあのドレスを気に入った。
お金がないことを気にしていたわけではなく、本当に。
だって、若草色はお母様の瞳と同じ色だから。
病気で傍にいられることは少なかったけど、お母様の色を身に付けていると寂しくはなかった。
「まぁ、ないものを返せと言うわけにはいかないな」
立ち上がった男性は私に近づいてきては、乱暴に頬を掴む。
「このガキで借金はチャラにしてやる」
その力強さに息を呑み、思わず身をすくめる。
「この歳頃の娘を欲しがっているお貴族様がいてな。俺が貸した3倍の金額でこの娘を買ってくれるそうだ」
「なっ……!!お前!最初からそれが目的で……!!」
「何のことだ?借用書にはちゃーんと書いてあるぜ?金を返さない場合、娘を貰い受けるってな」
「ふざけるな!!そんなのは偽物だ!!」
「は?よく見ろよ、ほら!!お前のサインが入ってんだろうが!!」
お父様の顔に借用書を近づけた。書かれている文字をよく見せるように。
それは紛れもなくお父様の筆跡。どんなに偽物だと叫んでも、それだけは変えようのない事実。
私が貴族に売られてしまえば両親は助かる。恐怖が体にまとわりつく感覚。
怖いと言って逃げ出すわけにはいかない。
──最後まで貴族らしく振る舞わなくては。
覚悟を決めた瞬間。執事長が大慌てで部屋に入ってきた。
「だ、旦那様。お客様がお見えです」
「おい、見てわかんねぇのか!!先客がいるだろうが!!お帰り願え!!」
屋敷の主かのように、男性は執事長に命令をした。
でも、執事長は流れる汗を拭いて、首を横に振った。
──あんなにも怯えるなんて。誰が来たのかしら。
「おい。何を黙って突っ立ってる?」
男性が苛立ったように声を荒らげる。
不意にテーブルを叩く。
執事長は何かを言おうとして、けれど言葉を飲み込んだ。
「聞こえなかったのか?帰せと言ってるんだよ」
さっきまで余裕たっぷりに浮かべていた笑みは消え、眉間には深い皺が刻まれていた。
「無能は無能らしく、黙って言うことを聞いてりゃいいんだよ!!」
怒鳴り声が屋敷中に響き渡る。
「来客中だったか。それはすまないことをした」
ピリついた空気を壊すように、入ってきたその人物。
誰もが一斉に、そちらへ視線を向ける。
そこにいたのは……テロイ家当主、リミック公爵様。
ふと、公爵様の肩に掛けられた羽織りへ目が留まる。
あれは五大貴族を象徴する物。
考案したのは公爵様だと聞いている。
プライベートで羽織ることはない。
つまり――私的な訪問ではなかった。
アクリッテ家が何か、罪を犯してしまったのだろうか。
不安に胸が押し潰される。
お父様の顔色も、さっきより悪くなった。
空気が重い。
さっきまで饒舌だった男性でさえ、口を閉ざしてしまう。
公爵様と会うのはこれが二回目。
初めて会ったときよりも、怖く感じるのは気のせいではない。
「いつからアクリッテ家は、当主が代わったんだ?」
お父様と男性を交互に見た。
その鋭い視線はまるで、私達の間にある事情を全て、見透かしているかのようだった。
「子爵。立て。貴族ならば、このようなチンピラ如き、恐れる必要はない」
「い、言ってくれるじゃないですか。俺は子爵様に貸した金を返してもらいに来ただけで……」
「誰が、話していいと許可した?」
男性の顔から血の気が引いた。
声を荒らげたわけでない。静かに問いかけただけ。
公爵家当主として。
それだけなのに、その場にいた誰もが息をすることすら躊躇うほどの圧があった。
男性の手が無意識に震えている。
さっきまでお父様を床に座らせ、屋敷の中で好き勝手に振る舞っていた人物とは思えない。
公爵様から差し出された手に戸惑いながらも、お父様はその手を掴んだ。
予想外の公爵様の登場に、男性はすっかり萎縮していた。
暑いわけでもないのに、汗が止まらない。
公爵様は、お父様を促すようにして、男性の向かいにあるソファへ腰を下ろした。
ゆったりと足を組む。その仕草には一切の迷いがなく、まるでここが自分の屋敷であるかのような堂々とした佇まいだった。
「借用書を見せろ」
「へ?」
「聞こえなかったのか?」
公爵様は小さく息を吐く。
組んだ足を解くことなく、冷たい視線を男性に向けた。
「早くしろ」
男性は慌てて、借用書を両手で差し出す。
お父様に対する態度とは大違い。
上から下に。ゆっくり視線が動く。内容を確かめるように。
たった数秒の出来事なのに、まるで永遠にも感じられた。
公爵様は借用書から目を離すと、紙の端を指先で軽く弾いた。
「娘を担保に金を借りたか」
やはり、公爵様が見ても書かれていることは変わらない。
返済が出来ない場合は娘を譲り渡すという内容が記されている。
男性の口元が歪む。
公爵様が内容を確認した。
その事実が、男性にとって何よりの後ろ盾になったのだろう。
「公爵様もお前がサインしたと言っている。さっさと娘を寄越しな」
さっきまで青ざめていた顔に、再び余裕が戻っていく。
そんな男性に一瞥することなく、公爵様は書類を魔法で燃やした。
紙は一瞬にして灰へと変わり、宙を舞う灰すら跡形もなく消えた。
あまりにも突然の出来事に、誰も状況を理解していない。
──何が起きたの?
「なっ……」
男性だけが、呆然とした声を漏らした。
「何しやがる!!」
我に返った男性が公爵様に詰め寄ろうとする。
けれど、その動きはすぐに止まった。
公爵様の合図で入ってきた部下の人が、目が眩む大金をテーブルに置いたからだ。
「これで、子爵の借金は完済だな」
あまりにも現実離れした金額に、男性は目を見開いた。
「お前が子爵に貸した金額だ」
「は?」
「利子も含めて全額だ」
あまりにもあっさりと言われ、男性は言葉を失う。
きっと、こんな結末になるとは思っていなかったのだろう。
お金を返せないお父様を追い詰め、私を手に入れる。
そして、貸した金額の3倍の値段で私を売り払う。
そのために用意した罠だったはず。
それなのに。
公爵様は、その全てを一瞬で覆してしまった。
お父様も驚いたように、公爵様を見つめていた。
「それを持って、今すぐに私の前から消えろ」
部屋の空気が重たく感じる。
見えない何かが上から押し潰そうとするように。
部下の人だけは平然としながら、冷ややかな目を男性に向けている。
「ひ、ひぃぃ!!」
男性はお金をしっかりと手に掴み、悲鳴を上げながら逃げるように出て行った。
「あ、あの。公爵様。これは一体……」
「あぁ、気にするな。あの詐欺師も、アクリッテ嬢を買おうとした貴族も、もう捕まえた」
屋敷の外では他にも部下が待機していたらしく、あの男性が出てきたところを捕縛。
捕まえる前にお金を返したのは、男性との関係を完全に断ち切るため。
その男性と手を組んでいた貴族の名は、スカム伯爵。
表向きは由緒ある家柄だが、裏では黒い噂が絶えない人物だった。
「い、いえ。そうではなくて。なぜ、助けてくれたのですか?」
アクリッテ家はテロイ家と交流を持ったことが一度もない。
パーティーで見かけることはあっても、常に人に囲まれている公爵家の皆様に声をかけられるはずもなかった。
ましてや、私達はただの貧乏子爵家。
公爵家の皆様からすれば、わざわざ気にかける理由などないはずだ。
言葉を交わしたことのない下級貴族のために、借金を肩代わりしてくれるなんて。
こんなにも大きな恩を、何の見返りもなく与える人がいるのだろうか。
喜びや嬉しさよりも、戸惑いのほうが大きかった。
だから、聞かずにはいられなかった。
「本来なら。この手の事件は被害届が出ないことには、調査する必要はないのだが」
公爵様は組んでいた足を解いた。
「ユーリが君と友達になれたことを、とても喜んでいたからな」
そう言って微笑んだ公爵様の顔は、驚くほど綺麗だった。
先ほどまでの冷たい眼差しからは想像もつかないほど穏やかで、その表情を見た瞬間、胸の奥で張り詰めていたものがふっと緩んだ。
怖い人だと思っていた。
でも、違った。
「だから助けた。それだけだ」
「し、しかし!あのような大金。お返しする方法が……」
「王宮で私の部下として働けば、すぐに返せるだろう」
すると、公爵様の部下が、公爵様と同じ羽織りをお父様に差し出した。
最初からそうなることが決まっていたかのように。
「私が公爵様の……!?」
「不服か?」
「そんな!滅相もございません!!」
お父様は慌てて首を横に振った。
これまで何の接点もなかった貧乏子爵が、王宮で働くだけでなく、テロイ公爵様の部下になるなんて。
お父様にとっては、あまりにも荷が重すぎる話だ。
そんな心を見透かしたように、小さく笑った。
「ならば問題ないな。詳しいことは追って伝える」
あまりにも話が早い。
借金を返して。私を救って。
さらには、お父様の働き口まで用意してくれた。
どう考えても、その場で思いついて決めたことではない。
「立て替えた分は給料の中から少しずつ返してくれればいい」
「は、はい。」
お父様は恐縮したように、頭を下げた。
「あ、あの!!」
公爵様のような雲の上の人が、私達を助けてくれた理由はわかった。
でも、まだわからないことがある。
「借用書にはどんな仕掛けがしてあったんですか?」
あの借用書にはお父様の署名があった。
少なくとも、私達が見た限りでは、偽物には見えなかった。
「仕掛けというほどのものではない。言っただろう?あの男は詐欺師だと」
聞けば、何も難しいことはなかった。
公爵様によれば、お父様が署名したとき、借用書は二枚重ねになっていたらしい。
上の紙には、お父様とお母様が確認した本来の内容。
そして下の紙には、何も書かれていなかった。
けれど、署名の筆圧だけは下の紙にも残る。
男性はその筆跡を利用し、下の紙に新たな内容を書き加えた借用書を作ったのだ。
まるで、お父様が最初からその条件に同意していたかのように。
「随分と古典的な手口だが、人を信じすぎる子爵だからこそ、通用した手だ」
「……私の愚かさが招いた結果、というわけですね」
お父様は俯いたまま、拳を握り締めていた。
きっと、お父様自身が一番そう思っているのだ。
お母様を助けたかった。 私を守りたかった。
そのためなら、自分がどれだけ恥をかいても構わないと思っていた。
なのに、その優しさを利用された。だからこそ、自分を責めている。
「違う」
公爵様は即座に否定した。
「お前は家族を守りたかった。その想いが、愚かであるはずがない」
「っ、あ……ありがとうございます」
「子爵の気持ちを利用したあのクズ共には、然るべき罰を与えると約束しよう」
「しかし、どうやって。その……」
借用書は公爵様の手で燃やしてしまった。
声に出さなくても、私達の疑問が伝わったのか
「心配する必要はない。借用書はもう一枚ある」
「もう一枚……あっ!!」
思わず声を荒らげてしまった。
そうか。わかった。
私を連れて行くために男性が持っていたもの。
そして、私が逃げ出さないようにするために、スカム伯爵が保管していたもの。
同じ内容の偽造された借用書が、二枚存在していたのだ。
保険を掛けていた。
どちらか一方を失っても、もう一方を使って私を追い詰められるように。
「証拠がなくとも、自白させられるだけの材料は揃っていたがな」
男性とスカム伯爵が接触していた記録。
お金の受け渡し。
アクリッテ家へ貸し付ける前から、娘を売る相手を探していたことを示す証拠。
そのどれもが、言い逃れの出来ない決定打となる。
「短時間でこれほどの証拠を……?」
「アクリッテ家のことは少し前から調べていた。金に余裕がないはずなのに、高価な薬を買っているところを、部下が目撃したからな」
不正がないか。罪を犯していないか。
最初はそれを把握するためだったのだろう。
五大貴族の一つであるテロイ公爵家ともなれば、貴族の動向を調べることは珍しくない。
けれど、調べていくうちに、私達がただ困窮しているだけだとわかった。
お母様の薬代。
積み重なった借金。
そして、その弱みに付け込もうとしている男性とスカム伯爵。
公爵様は、そこまで辿り着いていたのだ。
しばらくの間、何も言わずにお父様を見つめていた。
そして、静かな声で告げる。
「子爵。これからは、困ったことがあれば、まず私の元に来い」
「え……?」
「私には助けを求める相手を守る義務がある」
そんなことを言われるなんて、思ってもいなかった。
交流のある家門同士なら、助け合うことは珍しくない。
けれど、テロイ家とアクリッテ家には、これまで何の繋がりもなかった。
──それなのに……。
その言葉には、見返りを求めるような響きが一切なかった。
驕りも恩着せがましさもない。
ただ、自分が背負うべき責任を口にしているだけ。
「何より。上司として部下を守らないとなると、一生の恥だからな」
そう言って、穏やかに笑った。
公爵様は怖い人だと思っていた。
今でも少し怖い。
でも、弱い者に対しては優しく、困っている人には迷わず手を差し伸べられる。
守るべき相手には、どこまでも誠実。
敵には容赦がないだけで。
公爵様がなぜ、多くの人に慕われ、国王陛下からの信頼が厚いのか、わかったような気がした。
けれど――。
私達は知らない。
アクリッテ家を後にした公爵様と、その部下がどんな会話を交わしたのかを。
❁❁❁
「本当によろしいのですか?」
「何がだ」
「彼を部下にしたことですよ」
「あぁ……。そのことか。問題はないだろう?」
「ですが……」
「子爵には王宮での書類仕事を任せるだけだ」
「あ……あー。なるほど。そう、ですよね」
「他に不服は?」
「不服だなんて……」
「例外はフロートだけだ」




