何を愉しみに生きたいのか
「さっきのは、本心かい?」
「お春。――……何がだ」
春は布を口元に当て、うふふふと笑う。急に現れた春にも驚かなくなっていた自身に、黒兵衛は拍手を打ちたい。
死に神の存在に慣れるなど、希有な体験すぎて、こんな体験を与えてくれるお天道様には、皮肉を何か言ってやりたい。
だが、善継のように口達者ではないから、皮肉なんて出てこないだろう。
更に言うと、お天道様は今お休みで、月が空にある。死に神に味方しそうなのは、月のほうだ。月と太陽で、死人と生者の連想が違うのだ。
太陽のほうが生きている者の味方をしてくれそうだ。月は先程は朧だったのに、今の気持ちのように晴れてしまった。
雲はまだあるので、また朧月になる時が来るだろうが。
春の笑い方が異様に妖艶で、少し見蕩れる。しかし、それを素直に口に出すのは、癪であった。
「復讐したくはないのかい? 賭け事で、その田舎侍の命とかにすればいいじゃないか。今度こそは、自分で斬り殺すのさ」
「賭け事の賭けは、まだ決まってねぇ……つか、気付いたんだわ。俺ってば、天才でさ。命が長くても、永遠に博打がしたいとは思わねぇ」
博打は刹那的だからこそ面白みがあって、博打のためには生きたいとは思えない。
かといって金のためにも生きたくはない。
黒兵衛は妻が死んでから、苦しんでいるということに気づいたから、今はもう不思議と清々しい。
春は眼を細めて、首を傾げた。
博打や酒や女。他にも楽しみを見つけたら、もっと生き延びたいと思うだろうに、黒兵衛は何もかもを諦めてる。現状よりよくなることはないと、悟っている。
まるで、気持ちは瞑想をした坊主のような気分で頭の中は気持ちいい。
諦めているというよりかは、どこかすっきりと、憑きものが取れたように心地よく、今まで、何故ここまで泥棒に執着していたんだろう、ぼろい金に執着していたのだろうと思った。一橋卿の木材を見たら、自分の幸福の質は何と浅ましいのか。
人間とは何のために生きるのか。自らの幸福のためである。
幸福の質は人によって違うが、黒兵衛は賭博に酒だった。何と何と浅ましい。その中で、黒兵衛の中にふと浅ましくない幸せを見つけた。
金や命でなかったら、なんなのだろうと春は首かしげている。
先程、一橋卿と話していて、ふと気付いたことである。一橋卿に出会えて良かった。石庭も見られたし。
今、誰かの家の屋根にいるが、ここから見る江戸は、とても平面的で、これが火事を防ぐ効果だったっけ、などと本当かどうか判らないことを思い出す。
石川五右衛門ではないが、絶景かな絶景かな。
「じゃあ、お前の女を蘇らせるってのは、どうだい?」
これはいい提案だとばかりに春の声が跳ねた。
「それは、俺の女じゃねぇや。お前の作った模型になるんだ」
黒兵衛はうんざりとした声をあげた。機嫌が悪くなった。
何故そこでお前の傀儡に満足しなければならない、と不機嫌だ。
黒兵衛は立ち上がり、帰る支度をする。後ろを振り返り、春に睨み付けるように笑いかける。
「賭け事は楽しいけど、もうちょっと待っててくれ。色々と悩みたい」
「あんたに、悩みなんて高尚な考えがあるのかい? 答のない悩みは暗くさせるだけさ」
答のない悩み。そう、きっと答のない悩みを、これから先も延々とするのだろう、黒兵衛は。
黒兵衛だけではない。人間は考えて生きていく。
答のない悩みを、これからも未来生涯人と名がつく生き物はしていくのだろう。
人でなくとも、思考というものがある生き物は。
答の出ない悩み事とは、生死だの、もしくは相手が答えなければ妄想で終わってしまう悩みだ。黒兵衛自身に関するけれど、それでいて、黒兵衛に関する問題ではない悩み。それが、答のない悩み。
答がでない悩みは、人を鬱蒼とさせる。
そして体調を時には壊すものだ。そんなこと黒兵衛だって知っている。
「答は、自分自身で見つける。そうすれば、きっと、それが正しい答」
凛々しい声で、黒兵衛は言い切る。
黒兵衛はずっと長い間謎かけをされていた気分だったが、今やそれが解けた! とばかりに気持ちよさげである。
春は、目を半目に小首をかしげた。
「間違えているかもしれないよ?」
「当たり前だ。人は、間違えるから生きていくもんだ」
何を当然なことを聞いてくるんだ、と間抜けた思いを黒兵衛はした。
よほど黒兵衛の言葉がおかしかったのか、春は笑っている。以前に見た、絡繰り人形のような、かたかたとした声で。
笑われたって構わない。善継を見ていて、不意に影響されてきているのが、よーく判ってきた。
善継は黒兵衛にとっては、いい朋輩になってくれた。他人との境界線の内側に黒兵衛を入れてくれているかは判らないが、朋輩扱いをしてくれた。その気持ちを踏みにじるようなものだ、賭け事は。
徐々に心が悲しんでいる、このままでいいのか、と。
黒兵衛の幸せは、死に神だが春と、善継との出来事や話や遊び。
この幸せは、あの立派な一橋邸にあった柱にも負けない質だと自信が持てる。
――但し、偽物でなければだ。
嗚呼、ほらまた、黒兵衛の心を読んだように空が曇り空になってきた。死人の味方じゃなくて、生きた者の味方なのかい、お月様よう。
明日の善継を見て決めようと思ったところで、春に黒兵衛は尋ねる。
「お前、善継の何なんだ? いい加減、そろそろ話してくれたっていいだろ? ここまでお前にも。深く関わっちまったんだからよぉ」
「――親なんだよ、あたしは」
春は一言ぽつりと残すと、すぐに濃闇に紛れて、消え去った。
春の言葉に、黒兵衛はぎょっとした。だが、聞き返そうとしても、もうそこには誰もいない。
黒兵衛は空を見上げ、綺麗な星空に、どうにも切ない気持ちを抱き、その場から急いで逃げ去った。
(春、おめぇも自分を偽っていたんだな)
人は自分を偽って生きていくものだ。
偽らないとやっていけないことも人生起こることがある。
そんなときは、酒や博打で誤魔化してきたが、本心に気づいた。
だが、死に神様までもが自分を偽って生きていくだなんて、変な生き物だと黒兵衛は感じた。
(となると、善継はお春を親と知らず好いてることになる。うへぇ、こいつぁ厄介だ。だからか、賭事しようとしたのは)
何を犠牲にしてでも善継を化け物屋敷ではなく、自分から離したくもあったのか。
黒兵衛は春の苦労を少し不憫に思い、善継に関してはもう目も当てられない思いを味わい、口の中が鉄くさかった。




