下卑た幸せ
一橋邸には辺りが堀しかないし、目の前は辻番所だった。だから黒兵衛は猪牙を使い、横の道から縄梯子で侵入して盗みに行き、不思議な当主と出会った。
黒兵衛が明らかに不審者なのに、誰も呼ばなかったのだ。
善継は春に任せたが、どうにも気にくわない。睨むだけでなく、ちゃんと刑罰を与えればいいのに、と泥棒らしからぬ疑問を思っていた。
むしゃくしゃしたとき、一橋の御駕籠を思い出し、よし、一橋の屋敷へ盗みに行こうと思ったところだった。何だか不思議と、あの御駕籠の中身が気になった。
黒兵衛は、緊張のあまり、心ノ臓がズキズキと痛む気配を感じた。
ふと辺りを見回す。辺りは石庭が綺麗に掃除されていて、波の波紋が綺麗に表されていた。
一つだけ、不思議な形の波紋と流れの河があった。夜の目は、それらを正確とは言いづらいが、捉えられるように鍛えられている。ふと、早く帰らねばと思った。
闇を切る――のではなく、闇に交じって金を盗んでから帰ろうとしたのに、一橋の当主は、なんと縁側にいたのだ。
「君、嫁さんは? 知ってるの、このこと」
一橋治済卿は尋ねる。が、黒兵衛は言葉を一言も口にできない。緊張が最高潮に高まっていた。
喉が渇き、飲み込む唾も出てこない。からからとした喉が、ひりひりして、居たたまれない。
「答えないと、人を呼ぶよ」
「嬶は、死んだッ」
ほじくり返したくない過去。黒兵衛の心境を見抜いた一橋卿は、縁側へと黒兵衛を誘って「座りなさい」と命じた。
拒否権は一切ない。拒否したら人を呼ばれるだけだ。縁側なのに、何とも素晴らしい木目の板だ。大工仕事をしてた頃もあった黒兵衛には判る。
この屋敷自体が素晴らしい木材の家で、火事になんてなったら勿体ない木材でできた家である。柱に手をついて感心した黒兵衛は、ぺちぺちと柱を叩いた。
いつか火事なんて少なくなった頃に建ててみたくなる造りであった。
黒兵衛がはっとして一橋卿を見やると、笑っていた。嘲る類ではなく、「よくぞ見抜いた」と褒めたげな笑い方だった。
黒兵衛は一橋卿に倣って座り込み、手にある金を返そうとした。ところが、持って行けと言われた。
黒兵衛は胡散臭い気持ちで一橋卿を見やり、口元を塞いでる布を少し広げて、呼吸と喋りやすくした。
大金を目の前で失おうというのに、一橋卿は物怖じせず、泥棒の話を聞きたがる。まるで子供のような好奇心。
ふと縁側の奥を見れば、豪華絢爛な、月明かりに薄く反応して、煌びやかな品物ばかりが置いてある。
つくづく、庶民と武士の違いを知った。華美な装飾の鏡は、本当に鏡として機能するのか、不思議だった。
「最近、まともな人間と話してなくておらんでな。話せるのが楽しいよ。泥棒は、まともじゃないが、感覚は庶民だからね。武士じゃない」
だが、一橋卿の楽しみは、歪んでいそうな楽しみに思える。黒兵衛の妻の死んだ話を聞こうとしている気配が、何となく判るからだ。
薄ら寒い気持ちを、黒兵衛は感じた。じわじわと追いつめられてる鼠のような気持ちだった。それでも、不思議と怖さは麻痺していき、一橋卿が普通の人に見えてきた。
「さて、何で死んだか、聞いて良いかな」
「言わなかったら、どうするんだ」
やっぱり一橋卿は、只者ではない。それを痛感したのが、次の言葉だ。
心の不安を予知してるかのように、月は朧になっていく。嗚呼、月よ、星よ、できるだけ照らしてくれ。不安が、不安が過ぎる。言いたくないことを言わされる――。
無情にも星は瞬くだけ、月は益々雲に隠れた。
「お縄は、好きかね。十手は、好きかね。他人の不幸話を聞くのが好きでね、こう見えても」
一橋卿は、ただただ穏和であった。穏和だからこそ人が怖い、という矛盾した状況は、善継で経験しているので、黒兵衛は下手に逆らうのはやめた。
謂わば、この話をすることで、一橋卿は見逃してくれると言っているようなものだからだ。
「――侍に、いちゃもんをつけられて、死んだ。それも、大名のお付きの田舎侍だ」
――不慮の事故。そう、事故とも言える。田舎侍がたまたま酔っぱらっていて、妻に当たった結果だったのだから。
現場を見ていない黒兵衛には、どうすることもできず――、後々にどういう経緯で死んだか、近所の人から教えて貰った。
教えて貰ったとき、自分は何故、傍にいなかったのだろうと思った。傍にいたなら、侍に食ってかかって、同じく斬られて、同時に死ぬことができたのに。
いつの間にか、侍は切腹していて、残されたのは、未消化の気持ちだけだった。
帰っても、まだ子供を産んでなかったので、誰もいない。祖父母は、とっくに他界していた。
親戚連中も気遣ってくれたが、一線を引いていて、心から共に長屋にいてくれた者は、妻だけだった。
長屋の光景が懐かしい。散らかってる長屋も、満月の日に一回だけ掃除される前の長屋も。
洒落たものは今の長屋には何もないが、酒瓶ばかりで面積を取られていった。それもそれで、一つの暮らしだ、楽しいと思えば楽しい。
黒兵衛は気付いてしまった。黒兵衛の楽しみが、下卑た質であると。
この家にさりげなく置いてある火鉢に、素晴らしい木材でできた家に住むこと。幸福の度合いが一橋卿と違い、少し考え込んだ。
住んでいた長屋を引き払って出会ったのが、博打や酒や風呂屋である。
常世の夢を見た。博打や酒の快楽は、常世だ。黒兵衛を、いつまでも一人にしてはくれない。




