撚糸は赫然と(二)
糸、と言っても、紐と定義されるような見て呉れ。箸くらいの太さのモノが垂れ下がっている。
思えば、この糸は身体の一部であるだけでなく、双子の兄のような存在だった。いつも黙って俺を引っ張っては、それで何処か定まった所へ向かうでもない。冬の海辺やら仄暗い森、幽霊が眠るような寂れた児童遊園……どうやら人けは嫌ったらしい。どれだけ俺が怯えても引き摺って回った。
その“兄貴”が——確か十二の頃だったように思うが——突如として切り殺された。刃は母親の声だった。
「冬馬……そこ、痒い?」
「へ?」
「掻き毟って——別に『何にもなってないじゃない』。あんまり弄らないようにしなさい。痕が残って困るのは自分でしょう」
トントン、糸の付け根を二度叩いた。それが臨終だった。長男になった。
以来、糸から生命力を感じないようになり、終には物の怪の類にまで成り果てた。
五回忌を過ぎた頃、思春期に苛まれる。撚糸は紅黒く螺旋ってその行く先を探し求めた。
蒼穹に見守られた迷路は永遠であった。
街で年頃の女と見れば、怒った蛇のようにその首を抬げて這いつくばる。とぐろを巻き、締め上げることもあった。細胞の惨殺体が其処へ残らないのだから、やはり嘘としてしまうよりなかった。
人に嘘をついているより、自分自身を欺いている方が余計応えた。それなら天邪鬼と言われる方が余程心地良かった。
世界はその果てに至るまで暗く、感情の火花は舞い落ちた。佐野冬馬という人間は、十七の頃に揮発したのである。
それから、春を数えては十度。三十の跫音が響くオフィスの廊下に、己の影が張り付いた。相変わらず糸は亡霊のようで、如何に目を凝らしても影は丸かった。俺さえ忘れ去ってやれたなら、その糸は存在する事由を無くすだろう。霊というのは往々にしてそうなのだ。理屈ではそう分かっているのだが、俺は此奴から事由を奪い取れないでいる。
雨が窓を叩いている。日に日に高くなる夕陽は厚い雲が隠してしまった。エントランスには傘を忘れたらしい人影が二つ。
『予報見てなかったの?』
『見てないから持って来てないんだよ。大体君だってさ』
『あら、失礼ね。一緒にしないでよ。』
『それ、折り畳みだろ?』
スタスタと歩き出す女に、その小さい傘に潜り込む男。仄暗い色気が包み込んで、やがて霧散した。
(……さあ、何処へやら)
そう思うのも束の間で、僅かに開いていた窓から雨が入り込んでいるのに気が付いた。こんな陰鬱な空なのにそれも相近の切っ掛けと成り得るか……行く宛のない、正体不明の復讐心を雨に託して、立ち去る。
——付箋。大半は破れて、僅か二文字が滲んで浮かぶ。
『——————才木』
窓際に貼り付けられた所為だろう、雨露が肝心な所を洗い流したらしい。先の傘を持っていた女の名前である。付箋はまだ何か役目を残しているような虚ろげな表情で風に靡いた。
窓の鍵まで締める。残片は見当たらなかった。才木 恵美菜に何か特別な恨みがあるわけではないが、この付箋が矢鱈と空虚な未練のように思えて、彼女のデスクに押し付ける。
雷が遠くで落ちたらしい。俺は果たして何処で雨宿りをすれば良いだろうか。天気予報など当てにならない——そう思い込んではみるが、科学的根拠を提示できるだけ、予報の方が幾分かマシなのだろう。
糸は今宵も脚元でユラユラと笑う。




