撚糸は赫然と(三)
「才木さん、昨日」
「えぇ、散々だったわね。確かに予報では『雨後曇り』と言っていた筈なのに。」
才木は微笑した。付箋には既に目を遣っていたようだった。
「何の用件だったんです?」
「さぁ」
指先でそれを丸め込む。
「私が見る前に千切れたみたいね。すると、私のデスクに貼り付けたのは佐野くんかしら。」
「……名前が書いていましたから」
「名前だけ残った付箋をどうするつもりなの?」
今度はクスクスと笑う。いつも大人びた話し方をする癖に、こういう時だけはやけに幼くなる。
「丸橋係長がね」
背筋が伸びて身構える。見つめる先の顔は揺らぐ程に優しかった。
「貴方を誉めていたの。」
「誉める?」
「えぇ、とても。……私も訳が気になっちゃって、『何処を?』って聞いてみた。」
細い腕にしがみ付く時計を一瞥しながら言い放つ。『何処を』とは失礼な話ではないか。
「それで——」
「続けざまに」
目を細めてこちらを制する。
「『調子に乗るから全部は言うな』だそうよ。さぁて——」
後れ毛が中天に円を描く。ガサガサと人が集う。朝礼の時間を迎えていた。才木恵美菜は室内で唯一人こちらを向き、いつも通り気丈な口ぶりで挨拶を唱えた。まるで昨夜の逢瀬など取るに足らぬという様子であった。
丸橋政吾というのが、才木率いる“商品開発二課”を含めた、人事評価の係長を務める、昨晩小さい折り畳み傘に潜り込んだその男である。二年前——今の俺と同じ歳に——そこへ就いた。それが大出世かどうか……如何ともし難いものがあるが、どれだけ小突いても妬みに過ぎない。
才木も俺とは一つしか歳が変わらない。最近の先輩、と思っていたのが、丸橋と同じ春に二課長に据えられてしまった。この“開発二課”は『逸れ者の集まり』と噂をされるような所で、別に首を落とす理由もないという烏合の衆である。俺と才木は同じように一課から異動してきたのだが、その背景には大差があった。
俺は一課で碌な業績も残さずに落ちた側、才木は次期一課長の座を確約するかのような二課長着任である。『一度何かを纏め上げる経験値稼ぎ』といった所であろう。……何と良く出来たものだろうか、社会構造というものは。
二つの弱冠への繁慮など実に篦棒な話であった。
丸橋が厭に憎まれない訳は、その裁量の器用さにあった。誰かに肩を入れるでもなく、均して見ていながら少しずつ甘い。“開発二課”の大抵には単純な思考回路が埋もれているから、人心掌握は本一冊で充分だ。
才木に誰も歯向かわない訳は、その性格や見て呉れも然ることながら、それを裏切るかのような取っ付き易さが相当な強者である。愛想まで上手く消化されたのでは他の女性社員の立つ瀬がない。些少な理不尽も罷り通るのは天賦の才と言える。
「そういえば」
いつの間に、才木が俺の目線を真似るような位置にいた。
「あの付箋、筆跡に見覚えがなかったの。」
どんな顔で、と思い首を横に向けると、引き攣るように笑って言った。
「何か、紐みたいだったわ。赤い字、ダイイングメッセージのような。」
心臓が跳ねた。
確かに俺が見たのはボールペンで記された何かを託すような『才木』の字。赤……?赤いなどとは微塵とも思えなかった。抑も文末に『才木』と記すのは、本人以外に有り得ようか?言伝の終いに記名をした、というのが至極当然のことであろう。そうでもなければ、“誰の”……
巡らす毎に、奇妙さが深まるような話である。取り敢えず俺は今、二人の間を縫い付ける静寂に耐え切れなかった。
「丸橋さんじゃないですか?」
「……」
——確かに、嫌味であったか。いや、これは幸福な者が背負わなければいけない『他者からの嫉妬』という使命のようなものだ。諦めてもらおう。
「彼、字があまりきれいに書けないの。」
「へぇ、見掛けに寄りませんね。」
「メモ用紙なんか、見たら度肝を抜かれるわよ。ぐちゃぐちゃで、子どもの落書きみたい。」
その目にひんやりとした光が射した。牽制か自戒か、少し気が緩むような時間になると決まってそれを室中に散撒く。連中は腐っても社会人とあって少しは真剣な顔をしてみせる。
どこか合点の行かないような顔をして、二秒、三秒ほど俯く。
俺の椅子を支えに姿勢を直すと「そろそろ」と断りを入れ、屑箱に例の丸めた付箋を落とし、自分のデスクへ踵を返していった。
……何の沈黙であったのだろうか。いつもなら、巡視をしても大した反応をせず、淡々と自分の世界へ帰っていく筈だ。
携帯画面に「この件はまた後で」というメッセージが点く。出処に目を向けて見ると、離れた孤島の上から僅かな不安の色が覗いた。




