撚糸は赫然と(一)
『呪』という字を古来から、「のろ-ふ」とも「まじな-ふ」とも読む。いずれにしても、他者に対して何かしらの神秘的、非科学的な力を作用させ、心身の健康や環境に変化を与えようとする行為の事を言って、それがネガティブであれば「のろふ」、そうでなければ「まじなふ」と呼び分ける。
かつて、スイスの言語学者であるFerdinand de Saussureは『言語の恣意性』を説いた。例えば“Felis| silvestrus catus”という生物を、仏語では“chat”、英語では“cat”、中国語では“猫”、日本語では“ネコ”というように、ひとつの事物に対して各々の言語共同体の恣意、つまり好き勝手に語が振り分けられているという特性の事である。
これは何も音声としての語のみならず、表記の発生においても同じことが言えよう。殊、日本語に於いては漢字の訓にもこの『恣意性』がある。
例えば、『嵐』という字がある。中国語では読んで字の如く「山の風」であって原義は「山に立ち込む蒸気」であるし、現代でも『岚』(lán)は「もや」の事を指す。
それが日本に流れ着いたら、突如「暴風雨」の意味である「あらし」という訓みを与えられた。
小倉百人一首にも選定された、古今集に収められる文屋康秀の歌、
吹くからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を あらしといふらむ
<秋の草木が、風の吹くたびに折れ曲がっている。なるほど、『山』に『風』で、『あらし』と言うわけだ。>
平安期の時点で已に『嵐』の字を「暴風雨、あらし」と解していたことが分かる。
文字自体に意味を持たせることができる漢字という制度の下でも、同じ字に別の意味を持たせている。それくらい好き勝手にして良いというのが『言語の恣意性』である筈なのだ。
それでも「のろふ」「まじなふ」に『呪』を当てた。其処にはこの二つの語が表裏一体であるという“恣意”が込められているのだ。
『呪』に籠もった二面性は、悲しいかな無辜な『お呪い』という文字列で悟った。
会々手に取った言語学の初学書にソシュールの理屈を見た。
俺は何処へ転ぼうとも、この“偶然”を意味のあるものとして受け取っていなくてはならない。そのような世間一般が偶然と評するべき物を決してこじつけだとか「伝説」と呼んではいけない。それは裏切りになる。この二十六年という歳月への何よりの背信であって、右足首からぬるりと延びる赤い糸の完全なる存在否定である。
自分を守るため、その輪郭を保つために、幾ら飽くれども飽くなき挑戦をして居なければならない。




