戻ってきた
二人が何とか木箱を土の中へ埋め、屋敷へ戻った頃には、すでに夜も更け、屋敷中が寝静まっていた。
「……ふぅ。やっと終わった」
「お腹が空きましたね……」
「そうだな……」
二人は井戸の前に腰を下ろし、泥に汚れた手足を水で洗った。
冷たい井戸水が、疲れた身体に心地よい。
お菊は手拭いで手足の水気を拭うと、立ち上がった。
「何か残っていないか、台所を見てきますね」
「ああ、助かるよ」
台所へ向かおうとするお菊の背中へ、播磨が声を掛ける。
「それと……昨日は、握り飯をごちそうさま」
お菊の足が止まった。
「美味しかったよ」
お菊は振り返らなかった。
月明かりの中では、その表情まではよく見えない。
けれど播磨には、ほんの少しだけ微笑んでいるように見えた。
お菊は何も答えず、そのまま台所へ向かって歩いていった。
※
「ああ、疲れたぁ……」
播磨は自室へ続く廊下を歩きながら、独り言を漏らした。
「あの微笑みは反則だよなぁ……」
昨晩、握り飯の置かれていた場所へ差しかかり、播磨は先ほど見たお菊の横顔を思い浮かべた。
月明かりに照らされた、ほんの一瞬の微笑み。
――美しい。
ただただ、そう思った。
「惚れた者の負けだな……」
お菊は、性格はともかく美人だった。
お菊が屋敷へやって来たのは、まだ互いに幼かった頃だ。
不安そうにご隠居の後ろへ隠れながら、それでも播磨と目が合うと、小さく頭を下げた。
あの時から、たぶん負けていた。
月日は流れ、お菊は誰もが振り返るほど美しい娘になった。
先輩の女中たちからも、町の者たちからも可愛がられている。
父であるご隠居に至っては、実の息子である自分よりも、お菊に甘いほどだった。
それなのに、なぜか自分にだけは厳しい。
身に覚えは山ほどあるものの、その本当の理由までは分からない。
少なくとも、嫌われているわけではないはずだ。
「いつもそばにいてくれるよな……大概、怒っているけど」
播磨は苦笑を浮かべる。
けれど、時折こぼれるお菊の自然な笑顔は、どうしようもないほど播磨の心を掴んで離さなかった。
「怒っている時の笑顔は、勘弁してほしいけどな」
そう言って障子を開き、自室へ入る。
「腹減ったぁ……」
播磨は畳の上へ寝転び、見慣れた天井を仰いだ。
あとは、お菊が握り飯を持ってきてくれるのを待つだけだ。
そう思いながら、何気なく木箱が置かれていた場所へ視線を向ける。
「……?」
播磨の表情が固まった。
※
「お菊さーーーーん!」
真夜中の屋敷に、播磨の叫び声が響き渡った。
台所で握り飯を作っていたお菊の耳にも、その声ははっきりと届いた。
お菊は手にしていたものを放り出し、一も二もなく走り出す。
※
「ど、どうしました!? 播磨さま!」
許可を取ることも忘れ、お菊は播磨の自室へ飛び込んだ。
「……」
播磨は畳の上で腰を抜かし、青ざめた顔で震えていた。
「ハリマさま! しっかりしてください!」
播磨が無事であることに安堵すると同時に、お菊はその肩を掴んで叱咤する。
「お、お、お菊さん!」
播磨は震える手を持ち上げた。
「あ、あれを……」
その指が、部屋の片隅を指している。
お菊は播磨の指差す方へ視線を移した。
そこは、例の木箱が置かれていた場所だった。
「っ!」
お菊も息を呑む。
月明かりの差し込む畳の上に、一枚の絵皿が置かれていた。
「さ、皿が一枚、戻ってきてる……」
九枚の皿を納めた木箱は、今も遠い雑木林の土の下にある。
それなのに、失われた一枚だけが、播磨の部屋へ戻っていた。
「……ハリマさま」
「な、なんだ?」
「やっぱり、埋めるだけでは駄目だったようですね」
「……」
「……」
二人は並んで、月明かりに照らされた皿を見つめる。
「団子三本、返してくれる?」
「嫌です」
月明かりを受けた一枚の皿が、静かに二人を見上げていた。




