播磨様が折檻を?
翌日の昼下がり。
江戸の町は、今日も騒がしいほどの活気に満ちていた。
大通りには荷車を引く男たちが行き交い、魚を詰めた桶を担いだ行商人たちが威勢のよい声を張り上げている。
「鯵だよ! 今朝上がったばかりの鯵だ!」
「焼きたての団子はいかが!」
道端では、飴細工を売る男の周りに子供たちが集まっていた。
そのすぐ脇を、急ぎ足の飛脚が人々の間を縫うように駆け抜けていく。
軒先からは味噌や醤油の香りが漂い、どこかの茶屋からは、焼いた餅の香ばしい匂いまで流れてきた。
「危ないよ!」
「きゃっ!」
後ろから近づいてきた荷車を避け、お菊は道の端へ身を寄せた。
「まったく、昼間はいつ歩いても落ち着きませんね」
そう口にしながらも、その足取りは慣れたものだった。
お菊は、ご隠居から頼まれた用事のため、馴染みの薬種問屋へ向かっているところだった。
急ぎではないと言われている。
だからといって、寄り道をしてもよいという意味ではない。
少なくとも、お菊はそのつもりだった。
「お菊ちゃんじゃないか!」
通り沿いの八百屋から声を掛けられ、お菊は足を止めた。
「こんにちは」
「今日はひとりかい? 播磨様は一緒じゃないのかい?」
「ハリマさまを町へ連れ出したら、余計な物を買って帰りますから」
「あはは! そりゃ違いない!」
八百屋の主人が大声で笑った。
「この前も、随分と立派な人形を抱えて歩いていたよな」
「あれも呪われていました」
「またかい?」
「またです」
お菊が真顔で答えると、主人の笑い声はさらに大きくなった。
どうやら播磨の妙な収集癖は、町の人々にもよく知られているらしい。
「お菊ちゃんも苦労するねえ。ほら、これを持っていきな」
主人は籠から蜜柑を一つ取り出し、お菊へ差し出した。
「ありがとうございます」
お菊は蜜柑を受け取ると、袖の中へしまい、再び歩き出した。
町の中央へ近づくにつれ、人の数はさらに増えていく。
店先で値切る女たち。
往来の真ん中で立ち話をする職人たち。
母親の手を振りほどき、団子屋へ駆けていく子供。
そこへ一匹の犬が飛び出し、驚いた鶏が羽をばたつかせた。
「こら! 待ちなさい!」
子供を追う母親と、鶏を追う店主が同時に叫ぶ。
お菊は思わず笑いながら、その騒ぎを避けて細い路地へ入った。
大通りの喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
建物の間から差し込む陽が地面を細く照らし、軒下では猫が丸くなって眠っていた。
「薬種問屋は、この先でしたね」
ご隠居から預かった包みを確かめ、お菊は角を曲がった。
やがて目的の薬種問屋へ辿り着き、暖簾をくぐる。
「ごめんください」
「はーい」
店の奥から、店主の声が返ってきた。
しばらくして姿を現した店主は、お菊の顔を見るなり足を止めた。
「ああ、これは青山様のところの……」
「お菊です。ご隠居様から、お薬を受け取ってくるよう申しつかりました」
その瞬間、店主の表情がわずかにこわばった。
「あ、ああ。聞いているよ。今、用意するから、ちょっと待っていておくれ」
「はい。あと、こちらを……」
店主の態度を不思議に思いながら、お菊はご隠居から預かった包みを差し出した。
「いつも助かります。ご隠居様には、くれぐれもよろしくお伝えください」
店主は深々と頭を下げると、包みを持って店の奥へ姿を消した。
「何だったんだろう……?」
先ほどの表情を思い返し、お菊は妙な胸騒ぎを覚えた。
程なくして、店主が薬包を手に戻ってきた。
「では、こちらをご隠居様に。一日一包ですので、くれぐれも分量には気をつけてください……」
店主はそう言って薬包を差し出した。
お菊が受け取ろうと手を伸ばす。
しかし、店主の手は薬包から離れなかった。
「……?」
不思議に思い、お菊は店主の顔を見上げた。
そして、ぎょっとする。
店主の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……お菊さん」
「はい?」
「話は聞いているよ。あんたも大変だねえ……」
「は、はい?」
「播磨様も、お優しい顔をして酷いことをなさる……」
「へ?」
「身体の方は大丈夫なのかい? もし傷があるなら、いつでも言っておくれ。よく効く薬があるんだ」
「な、何の話です?」
「分かっている! 分かっているよ!」
店主は、お菊の言葉を遮るように声を上げた。
「言いたくないんだろう? 無理をしなくていいんだ!」
「は、はぁ……」
「それにしても、あの播磨様が折檻とは……」
「っ!」
その言葉を聞いた瞬間、お菊はすべてを察した。
昨晩の偽造された札。
今朝から姿を見ていない播磨。
そして、あの十枚絵皿。
『あの男! 箱に何かしやがりましたね!』
お菊は店主へ早口で礼を告げると、薬包を抱えて店を飛び出した。
そして、活気あふれる江戸の町を、屋敷へ向かって一目散に駆け出した。
※
「はぁ、はぁ……た、ただいま戻りました!」
肩で息をしながら、お菊は屋敷へ駆け込んだ。
「お帰り、お菊ちゃん」
ちょうど廊下を歩いていた年配の女中が、珍しく慌てた様子のお菊を見て目を丸くする。
「どうしたんだい? そんなに息を切らして」
「い、いえ。何でもありません」
お菊は乱れた呼吸を整えながら、屋敷の奥へ視線を向けた。
「それより、ハリマさまは?」
「さあねえ。今日はまだ見ていないよ」
「そうですか……」
広い屋敷では、同じ屋敷に暮らしていても、一日中顔を合わせないことは珍しくない。
だが今のお菊には、その答えが妙に不吉なものに思えた。
「ご隠居様のところへ行ってきます」
「ああ。薬を届けに行くんだろう? そんなに慌てて転ぶんじゃないよ」
「はい!」
そう返事をすると、お菊は再び屋敷の奥へ向かって走り出した。
※
「失礼します。お菊です」
「おお、お菊。入っておいで」
障子の向こうから、ご隠居の穏やかな声が返ってくる。
お菊が障子を開けると、ご隠居はにこりと笑い、手招きしていた。
「すまなかったな。使いを頼んでしまって」
「いえ。こちらがお薬になります」
お菊が差し出した薬包を、ご隠居は大事そうに受け取った。
「ああ、助かるよ」
ご隠居はお菊に背を向けると、箪笥を開いて薬包を丁寧にしまった。
「ところで、ご隠居様」
「何だい?」
「ハリマさまがどちらにいるか、ご存じですか?」
「播磨?」
ご隠居は箪笥の中へ手を入れたまま、興味なさそうに答える。
「ああ。あいつなら先ほど、蔵の鍵を取りに来たぞ」
「蔵の鍵を……?」
お菊の顔から、すっと表情が消えた。
「そうだ。何に使うのかと聞いたんだが、妙に急いでいてな。まあ、あいつのことだから、また余計な物でも――」
話しながら、ご隠居は箪笥の奥へ手を伸ばした。
薬とは別の場所に隠しておいた、小さな菓子包みを取り出す。
「まあ、そんなことよりな。お菊と一緒に食べようと思って、とっておきの茶菓子を――」
ご隠居は菓子包みを手に、嬉しそうに振り返った。
「……早っ!」
すでに、お菊の姿はどこにもなかった。
開け放たれた障子の向こうには、誰もいない廊下が続いている。
ご隠居はしばらく呆然とそこを見つめ、手にした菓子包みへ視線を落とした。
「……楽しみにしておったのに」




