2.
【1歳】
転生して1年。 俺はついに自力で立ち上がり、よちよち歩きができるようになった。
しかし、相変わらずこの真っ白で快適な魔法の部屋から一歩も出してもらえない。
ある時、俺はよちよちと部屋の出入り口に向かってみた。 エルナが近づいた時は、音もなくスッと横にスライドして開くあの魔法の扉だ。
俺も前に立てば開くと思ったのだ。しかし、俺がどれだけ扉の前に立っても、手を振っても、ピクリとも動かない。
(あれ? おかしいな。エルナの時は自動で開いたのに)
俺が不思議に思ってペチペチと扉を叩いていると、扉が開いてスッとエルナが現れた。
彼女は俺を抱き上げ、一度扉から離れ、ふたたび扉の前に立つと――シューッという空気音と共に、扉はいとも簡単にスライドして開いたのだ。
(……!! そうか! この扉、魔力のコントロールができない俺が近づいても開かないのか! 魔力量認識魔法か!)
俺の脳内で、完璧なファンタジー設定が組み上がっていく。
(もしくは登録された人物の魔力波長しか認識しない仕組みになってるんだ。やはり外はまだ暗殺者がうろついていて危険で、エルナも俺を守るために徹底した結界を張っているんだな!)
俺は外の世界への興味よりも、その高度な結界魔法の仕組みに一人で感心してしまった。
食事はドロドロとしたペースト状の離乳食に変わっていた。
見た目は灰色や緑色で、スライムをすり潰したような不気味な代物だが、口に入れるとほんのりと甘く、肉や野菜の強烈な旨味が広がり、驚くほど栄養が体に染み渡る感覚がある。
(美味い! 王室専属の錬金術師が、俺の成長に合わせて調合した万能霊薬エリクサー入りの特別食だな。間違いない)
俺は出されたものを残さず平らげた。
おもちゃも不思議なものばかりだ。エルナが持ってきたブロックは、柔らかいのに絶対に壊れず、近づけると磁石のようにカチッと吸い付くようにくっつく。
(吸着の付与魔法が施された最高級の知育玩具に違いない!)
俺は早く魔法を使えるようになりたくて、言葉を覚えようと試みるが、エルナが発する謎の言語は文法も発音も前世の知識と全く結びつかず、遅々として進まなかった。
エルナ自身も相変わらずほとんど喋らず、たまに口を開いても「ステラ、ルン」「ティス、ファ」といった短い単語ばかり。
(エルナだと絶対量的に聞く機会が少ないのが問題だ)
焦燥感はあったが、「命を狙われている以上、この絶対安全な結界部屋から出ないのが一番だ」と己を納得させ、俺は怠惰な軟禁ライフを存分に満喫していた。
【2歳】
2歳になったある日。
俺の平穏な引きこもりライフに、ついに劇的な変化が訪れた。
いつものように昼寝から目覚めると、部屋の中央に見慣れない巨大な物体が鎮座していたのだ。
それは、大人がすっぽりと入れるほどの大きさの、白く滑らかな卵型のカプセルだった。
上部は透明なガラス張りになっており、中には柔らかなクッションのようなものが敷き詰められている。
(な、なんだあれ!? でかい謎の箱……!?)
驚いて見上げると、エルナがいつになく神妙な面持ちで立っていた。
「――レオXX。XXXX・XX、XXX・XXXXX」
エルナの言葉は相変わらずまったくわからない。だが、その真剣な眼差しから、ただならぬ事態であることだけは伝わってきた。
するとエルナは無表情のままツカツカと歩み寄ってくると、有無を言わさぬ手つきで俺をガシッと抱き上げた。
(えっ!? ちょ、待てよ! なにすんだよ!?)
俺が抗議の声を上げる間もなく、彼女は俺の衣服を手早く脱がせ、その巨大なカプセルの中へと俺を無理やり押し込んだのだ。
(おいおいおい! ちょっと待て! なんだこれ!)
俺は慌てて起き上がろうとしたが、幼児の短い手足では上手く力が入らない。
俺がカプセルの縁に手をかけて外に出ようと暴れると、エルナは無情にもカプセルの重厚な蓋を上からガチャンと閉めてしまった。
シューッという空気音と共に、カプセルが完全に密閉される。
「あうー! あーっ!」
俺はガラス張りの蓋を内側からバンバンと叩いて必死に抗議したが、エルナは冷たい眼差しで外から俺を見下ろすだけで、開けてくれる気配は一切ない。
(な、なんだよこれ! なんで閉じ込められるんだ!? 俺、何か悪いことしたか!? まさか暗殺!?エルナが寝返った!? 俺、2歳にしてここで消されるのか!?)
わけがわからずパニックになっていると、カプセルの内部にシューという音と共に、薄緑色のミストが勢いよく噴き出し、充満し始めた。
(う、うわっ! 毒ガスか!?)
俺は必死に息を止めようとしたが、幼児の肺活量ではすぐに限界が来る。霧は容赦なく俺の体を包み込み、鼻腔から肺へと侵入してきた。
(ゲホッ……! ……あれ?)
毒ガスを吸い込んで苦しむかと思いきや、体から急速に力が抜け、まぶたが鉛のように重くなってきた。
(なんだ……これ……エルナ、俺を、どうするつもり、だ……)
わけのわからない困惑と恐怖のまま、抗えない強烈な睡魔に襲われ、俺の意識は深い暗闇へと沈んでいった。
◇
「……レオ殿下。レオ殿下」
遠くで、エレナの声が聞こえた。
重いまぶたを開けると、視界が以前よりもずっとクリアになっていることに気づいた。
体の節々の感覚が鋭敏になり、頭の奥底にあったモヤモヤとした霧のようなものが完全に晴れ、思考が驚くほどスッキリとしている。
(……おおっ!? なんだこの全能感は! 殺されたわけじゃなかったのか!?)
俺はカプセルの中で身を起こした。
体が軽い。2歳の幼児特有の、あの頭が重くてバランスが取りにくい感覚が嘘のように消え去っている。
筋肉にしっかりとした芯が通り、自分の意思でコントロールしやすくなっている。前世の大人の記憶と、幼児の脳が、ようやく上手く連動し始めた感覚だった。
蓋の開いたカプセルから、エルナが俺を抱き上げた。
「――経過時間、3ヶ月。第1次フェーズ、完了。バイタル、正常」
(……えっ?)
俺は目を丸くした。
今、エルナが発した言葉。発音自体は相変わらず聞いたこともない異世界語のはずなのに、なぜか『経過時間』『3ヶ月』『完了』『正常』といった単語の概念が、頭の中に直接翻訳されるように流れ込んできたのだ。
「あ、う……あー……」
俺は自分でも何か言葉を発しようと口を開いたが、舌が上手く回らず、意味のある音にはならなかった。やはりまだ喋ることはできないらしい。
しかし、俺の心は信じられないほどの驚愕と歓喜で震えていた。
(さ、3ヶ月!? 今、3ヶ月って言ったのか!? あのカプセルの中で、3ヶ月もの間眠り続けていたのか!?)
(でもよく考えると3ヶ月の冬眠魔法で、これほどの身体強化と思考力アップが得られるのか!この世界の言葉の意味が、少しだけだけど理解できるようになったのは大きい!)
前世の大人の論理的思考力と、このチート級の学習能力。
まだ自分では喋れないが、エルナの言葉を少しずつ拾い上げ、意味を繋ぎ合わせることはできそうだ。
言葉さえ理解できるようになれば、この世界のことも、魔法の使い方も教わることができるはずだ。
(やった……! これでついに、俺の『なろう系知識無双』への第一歩が踏み出せるぞ! 親の顔も知らない不遇な王子からの、華麗なる逆転劇の幕開けだ!)
まだ見ぬ外の世界への期待と、最高に怠惰な生活を手に入れるという野望に燃えながら、カプセルから目覚めた俺は、ついに本気でこの世界の知識を吸収し始めたのだった。
◇
カプセルでの強制的な冬眠から目覚めて数日後。
俺はついに、この真っ白な結界部屋から外へ出る許可をもぎ取った。
エルナの言葉は相変わらず聞いたこともない異世界語だが、カプセルのおかげで、なぜか『行動制限解除』『居住区画の視察』という概念が俺の脳内に直接翻訳されて流れ込んできたのだ。
(いくいく! 行くに決まってんだろ!)
俺ははやる気持ちを抑えきれず、自らの足でしっかりと立ち上がった。
カプセルのおかげで体幹が安定し、2歳児とは思えないほどスムーズに歩けるようになっている。
俺がよちよちと(俺の中では威風堂々と)あの人物認識の結界扉へと向かうと、エルナが少し後ろからついてきて、扉の前に立った。
シューッという空気音と共に、分厚い金属の扉が左右にスライドして開く。
(いざ、未知なるファンタジー世界へ!)
心の中で高らかに叫びながら、俺は部屋の外へと足を踏み出した。
扉の向こうは、どこまでも白く、そして異常なほど清潔な長い回廊だった。
石造りの城壁や、鎧を着た騎士の姿はない。
窓すらなく、壁も床も天井も継ぎ目のない滑らかな素材でできており、空間全体が柔らかく発光している。
(うーん、やっぱり王宮の奥深くは、強力な防衛結界と光の魔法で統一されてるんだな。徹底してるぜ)
俺は一人で勝手に納得しながら、エルナの前を意気込んで進んでいった。
やがて、回廊の突き当たりにある巨大な両開きの扉が自動で開き――俺たちは、広大な展望フロアのような場所に出た。
正面には、床から天井まで届く、途方もなく巨大なガラス張りの窓がある。
(おおっ!)
俺は目を輝かせ、分厚いガラス窓へと駆け寄った。
(いよいよ、お城と城下町の見学か! レンガ造りの家々、馬車が行き交う石畳の道、活気あふれる市場! これぞ異世界転生!)
期待に胸を膨らませて、俺は窓ガラスに両手をベタッと張り付け、外の景色を見下ろした。
そして、俺の脳は完全にショートした。
「……あ、う……?」
間抜けな声が漏れた。
目の前に広がっていたのは、中世の城下町などでは断じてなかったからだ。
「あぅ・・・あうあああああっ!!」(なん……じゃこりゃあああああっ!!)
赤ん坊の舌足らずな声で、俺は絶叫を上げた。
遥か下方、いや、見渡す限りの地平線まで広がり続けているのは、金属とガラス、そして幾何学的な光の脈動で構築された、何がどうなっているか全くわからない巨大都市だった。
俺たちが今立っているのは、分厚く透明な壁に覆われた、完全密閉ドーム型の途方もなく巨大な施設の最上階だったのだ。
レンガ造りの家? 木組みの酒場? そんなものは一つもない。
天を衝くような、植物の蔓が絡み合うような複雑で美しいデザインの超高層ビル群が林立している。
建物の表面には、エルナが手から出す魔法陣と同じ、いやそれより格段に大きい青白いホログラムの巨大な映像が、空中に直接投影されてゆらゆらと浮かび上がっている。
馬車? 違う。ビルとビルを繋ぐように、空中に透明なパイプが何重にも張り巡らされ、その中を光の帯のような流線型の車が、目にも止まらぬ猛スピードで飛ぶように駆け抜けているのだ。
空には、鳥ではなく、俺の部屋に浮いていたような自律型ドローンが、まるで群れのようにひしめき合い、しかし秩序だった光の軌道を描きながら整然と飛び交っている。
ドームの眼下にある幾層にも重なった空中回廊を歩く人々を見下ろせば、中世の農民のような粗末な服を着た者は一人もいない。
誰もが、色や形を絶えず変えるスマートなスーツを身にまとい、手元の空間に青白いホログラム映像を浮かび上がらせて操作しながら足早に歩いている。
(ま、魔法じゃねえ! ゴリゴリの、それも俺のいた地球より遥かに進んだ超科学技術だ、これ!!)
中世ヨーロッパ風の異世界? 魔法文明? 違う! 前世の地球すら遥かに凌駕する、圧倒的なオーバーテクノロジーの超未来社会じゃないか!
俺はガクガクと震える足でガラス窓にへばりついたまま、ドームの外――空を見上げた。
そこには、青い空も白い雲もなかった。
分厚く淀んだ不気味なほど鮮やかなオレンジ色のもやが、空全体を重苦しく覆い尽くしている。
太陽(恒星)の光は極端に弱く、遠くで頼りなく光る小さな光の塊が見えるだけ。
ドーム都市の放つ強烈な人工的な光だけが、その薄いオレンジの暗い世界を空しく照らし出している。
だが、そんな太陽の小ささなどどうでもよくなるほどの絶望的な光景が、そのオレンジ色の空の向こう側に浮かんでいた。
圧倒的な質量を感じさせる、超巨大な球体。
淡い黄土色の表面には美しいが恐怖を覚える縞模様が走り、その周囲を、氷の粒からなる壮大なリングが幾重にも取り巻いている。
それは空の半分を埋め尽くさんばかりの威容を誇り、神々しくも不気味なほどの存在感を放ちながら、重苦しい空の向こうに鎮座していた。
(……土星、みたいな星……!?)
無意識のうちに、前世の記憶からそんな単語がこぼれ落ちた。
俺は図鑑やドキュメンタリー番組でしか見たことのない土星にそっくりな巨大天体を前に、愕然とした。
(異世界の空には月が二つあるとか、太陽が三つとか、そんな設定は読んだことはある。でも、これほどまでに圧倒的で、リアルな惑星が目前に迫っているなんて……!)
(これが……俺が転生した異世界……っ!?)
俺のポンコツサラリーマンの脳内でも、さすがに今の状況が理解できてきた。
土星のような巨大な惑星が空を覆う世界。
そして、この息を呑むような超絶未来都市。
『マヨネーズ? ああ、検索したら君の時代の調味料か』
『リバーシっていうのも……うん、この時代にはないね』
あの時、真っ白な空間で出会った神の言葉が、残酷なまでの鮮明さで脳裏に蘇る。
あれは『文明が未発達だからない』という意味ではなかったのだ。
マヨネーズすら、過去の遺物としてわざわざデータベースで検索しなければならないほどの……魔法など存在しない、俺のいた地球より遥かに科学文明が進んだ超未来の異世界だったということだ!
「あああああ……っ!!」
俺はガラス窓に手をついたまま、ズルズルとその場に崩れ落ちた。
俺の部屋の快適な空調も、人物認識魔法だと思っていた自動ドアも、落としても割れない哺乳瓶も、あのエレナが空中に浮かべていた光のパネルも、俺を3ヶ月で急成長させたあのカプセルも! すべて魔法なんかじゃない! 圧倒的な未来の科学技術の産物だったのだ!
(こ、これじゃ……俺のなけなしの現代知識で無双なんて、絶対にできないじゃないか……っ!!)
俺は頭を抱えた。
魔法がないなら、現代知識でチートするしかないと思っていた。
しかし、俺が前世で培ったエクセルやワードの基本操作、ちょっとした料理の知識、生半可な歴史や科学の知識なんて、この超未来の異世界では石器時代の石斧以下の役にも立たない。
いや、石斧の方がまだ博物館で飾ってもらえる分マシかもしれない。
俺が「マヨネーズ作れます!」とドヤ顔で言ったところで、「へえ、原始的な調味料ですね。フードプリンターで0.1秒で分子合成できますが?」とか言われて鼻で笑われるのがオチだ。
俺の甘い、なろう系知識無双スローライフの夢は、2歳と3ヶ月にして完全に、そして徹底的に打ち砕かれたのだ。
(終わった……。俺の人生、またしてもハードモード決定か……)
絶望のどん底に突き落とされ、俺は呆然とオレンジ色の空に浮かぶ巨大な惑星を見上げ続けた。
この圧倒的な未来社会で、天才的な異世界人たちに囲まれて、どうやって生き延びればいいんだ?
また前世のように、底辺でこき使われ、無能と罵られながら過労死する運命なのか?
……いや。
(……待てよ)
絶望の中で、俺の心の中にふと、黒い炎のようなものが小さく灯った。
(俺は、王子として転生したんだよな? 知識で無双できなくても、俺には王族という絶対権力があるじゃないか!)
そうだ。前世では、誰よりも真面目に働き、他人のために身を粉にして尽くしたのに、会社に都合よく搾取され、最後はボロ雑巾のように捨てられて過労死した。
あの神だって言っていたじゃないか。
『君は前世で真面目で損をしてきた。今度は、絶対に損をしないようにね』
『これまで君が苦しんできた分、今度は住民を思い切り苦しませてもいいからね』
と。
俺の目に、徐々にやるせない怒りに満ちた暗い光が宿り始めた。
俺は立ち上がり、ガラス窓に反射する幼い自分の顔を見つめた。 そこには、2歳児とは思えないような、薄暗く歪んだ笑みを浮かべる俺がいた。
(絶対に……絶対に真面目に生きてやるもんか……!)
心の中で、俺は固く誓った。
知識無双ができないなら、残された武器は王族という絶対権力だけだ。
俺が大人になってこの星を治める王になった時、その権力を最大限に悪用してやる。
俺より圧倒的に頭のいい異世界の連中を顎で使い、誰よりも怠惰に、自己中心的に生きてやる。
俺に真面目を強要してくる奴らを全員クビにして、この世界を俺にとって都合のいい、最高に堕落した社会にしてやるんだ!
オレンジ色の靄に包まれた異世界の空と、そこに浮かぶ圧倒的な惑星を見上げながら、2歳と3ヶ月の俺は、これからの人生における絶対的な指針を決定づけた。
これが、のちに星王として即位し、盛大な勘違いの末にこの世界に大改革をもたらしてしまう稀代の賢王の、大いなる怠惰へ向けた第一歩であった。




