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1.

ブラック企業の安っぽいデスクに突っ伏したまま、俺の意識は急速に薄れていった。


宗教団体に騙された親族が残した巨額の借金。


それを返すためだけに身を粉にして働き、会社には都合よく使い潰され、最後は過労死。


なにもいいことなんてなかった。他人のために真面目に生きるなんて、ただ損をするだけの人生だった。


「真面目に生きてきたのに……」





――次に目を開けた時、俺は上下左右の感覚すらない、真っ白な空間にポツンと立っていた。


『やあ。君の人生、あまりにも可哀想すぎるよ』


どこからともなく声が響き、目の前に光り輝く人影が現れた。


「えっ……? ここは……? 俺、たしか会社で残業してて……」


唐突な状況に戸惑いながら周囲を見回す俺に、光の人影は静かに告げた。


『君は死んだんだよ。過労だね。デスクでついに心臓が限界を迎えたんだ』


「死んだ……俺が?」


自分の手を見つめる。不思議と焦りや恐怖はなかった。過酷なノルマも、終わらない残業も、無くならない督促状も、もうない。


ただ、果てしない疲労感から解放された安堵だけが胸に広がっていく。


「そっか……俺、ついに死んだんですか。じゃあ、ここは死後の世界ってやつですか。で、あなたは……お迎えの天使とか?」


『君たちの概念で一番近い言葉を選ぶなら、神とでも名乗っておこうかな』


「神様……!」


『君はずっと真面目に、他人のために生きてきたんだね。けれど、その結果がこれ。あまりにも不憫だからね、私が君に新しい人生を用意してあげようと思うんだよ』


「新しい、人生……?」


『別の世界で生まれ変わるんだ。しかも、ただの人間じゃない。特別に王子として生まれ変わらせてあげようじゃないか』


「別の世界で……王子、ですか」


俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。


王子。それはつまり、生まれながらにして絶対的な権力と富を約束された勝ち組ポジション。


前世で地べたを這いつくばって生きてきた俺への、これ以上ないご褒美じゃないか。


(……ってことは、もしかして……! 俺、ラノベみたいに別の世界に転生できるってことか!?)


生前、過酷な現実から逃避するために読み漁っていた「異世界転生もの」の知識が脳内を駆け巡る。


俺のテンションは内面で一気に沸点へと達しそうになっていた。


しかし、ここで浮かれてはいけない。ここはお約束があるはずだ!俺は必死に興奮を抑え込み、尋ねた。


「あ、あの……それは、いわゆる転生というものでしょうか。もしそうなら、私に何か特別な力……チートスキルなどを頂けるのでしょうか? 例えば、全属性魔法適性とか、無限収納アイテムボックスとか……」


神は不思議そうに光の首を傾げた。


『……スキル? なんのことだい?』


「えっ、いや、その……神様からの特別な恩恵と言いますか……」


『うーん、よくわからないけど……まぁ、王子に転生させてあげるんだから、特別だと思うけどね』


(……そうか、王子か。ってことは、つまり内政ものの転生か!)


俺は内心で力強くガッツポーズを取った。剣や魔法で前線で戦うのではなく、現代知識を駆使して領地を豊かにしていく頭脳戦。


安全で快適な城の中から指示を出すだけの、俺の理想とするシチュエーションだ。それなら能力をもらえなくったっていい。


(マジかー! 知識チートでマヨネーズ無双しちゃうのかー! それとも娯楽の少ない世界でリバーシ革命!? 典型的な無双ルートいっちゃいますかー!)


頭の中では歓喜の舞を踊っていると、神がまた首を傾けた。


『マヨネーズ?』


神は少し虚空を見つめ、何やらぶつぶつと呟いた。


(あ、やっぱり心の中も読めるんですね、わかります)


『ああ、検索したら君の時代の調味料か。リバーシっていうのも……うん、この時代にはないね』


(よしっ! 俺の時代の調味料がなく、オセロもない! つまり、文明レベルは中世ヨーロッパあたりってことだ! 現代知識無双系ね、完全に理解した!)


俺の現代知識(といっても一般常識レベルだが)があれば、少しひけらかすだけで天才王子としてもてはやされ、一生ダラダラとスローライフを送れるに違いない。


「おっしゃる意味がよく理解できました。ぜひ、私を転生させてください」


俺が深々と頭を下げると、神は少し可笑しそうに、けれど優しく言った。


『ふふ、君の好きにするがいいよ。真面目に内政して世界を発展させてもいいし、これまで君が苦しんできた分、今度は君が民を思い切り苦しませても構わないさ』


「……国を壊しても、いいと?」


『ああ。君は前世で真面目で損をしてきた。だから転生させてあげるんじゃないか。今度は、絶対に損をしないようにね』


「はい。前世では真面目に生きて損ばかりでした。今度は絶対に損をしません。誰のためでもなく、自分のために……徹底的に自由に生きさせていただきます」


俺が恭しく宣言すると、神は満足そうに光を瞬かせた。


『ああ、期待しているよ。存分に、国を壊してくれたまえ』


――その瞬間だった。 俺を見下ろす神の光の輪郭が、ふと、三日月のように歪んだ。


優しかったはずの気配が反転し、底知れぬほど冷たく、ドス黒い悪意を孕んだ……ひどく不気味な、気味の悪い雰囲気へ変わる。


(え……?)


ゾクリと、背筋を氷で撫でられたような悪寒が走る。


だが、その笑みの真意を問いただす間もなく、俺の意識は真っ白な光の中に完全に溶け落ちていった。




【誕生直後】


(……ん? ここは?)


意識が覚醒し始めた俺は、ぼんやりと周囲を認識し始めた。


体が温かく、少しとろみのある液体にすっぽりと浸かっている感覚。


そこからゆっくりと引っぱり出され、驚くほど肌触りの良い柔らかな布で丁寧に包み込まれていく。


(ずいぶんと質のいい薬湯だったな。中世の王族ともなれば、赤ん坊の健康のために特別な魔法の霊薬にでも浸からせる習慣があるのか。贅沢なもんだ)


重いまぶたをなんとか開けると、視界はまだ白くぼやけていた。


(親は誰だろう……? 王様と王妃様が「おお、我が子よ!」って涙ぐみながら覗き込んでくる、お決まりのテンプレ展開かな?)


しかし、ぼやける視界を一生懸命に見回しても、豪奢なドレスやマントを着た親らしき人物は見当たらない。


代わりに俺を抱き上げ、手際よく作業を進めているのは、黒っぽい簡素な服を着て、分厚いメガネをかけた十代半ばくらいの女の子だった。


「――XXX、レオXX。XXXXX・XX」


ひどく静かで、感情の読めない平坦な声が耳元に落ちた。


(……ん? なんだ、今の言葉? まったく聞き取れないぞ)


日本語ではない。英語でもない。これまでに聞いたことのない、滑らかで規則的な発音。


間違いなく、この異世界の言語だ。


彼女はメガネの奥の瞳に一切の感情を浮かべず、無表情のまま俺の世話をしている。


しかしその手つきはひどく恭しく、俺を極めて丁重に扱っているのがわかった。


そして彼女は俺の顔をじっと見つめ、もう一度「レオXX」と小さく呟いた。


レオ。それがどうやら、俺の新しい名前らしい。いかにも高貴な王子様っぽくて悪くない響きだ。


(この人が親? それとも使用人? まあ、王族なら専属の乳母が真っ先に世話をするのも珍しくないか。言葉は分からないけど)


もっと状況を観察したかったが、赤ん坊の脳というのは恐ろしく未発達で、前世の大人の記憶があっても複雑な思考を長く保つことができない。


起きているだけで、強制的な睡魔が波のように押し寄せてくるのだ。


(まあいい。今はとにかく……眠い……)


俺は抗いがたい睡魔に身を任せ、新しい人生の第一歩を深い眠りの中で迎えた。



【生後1ヶ月】


転生して1ヶ月が経った。


俺の生活は、泣いて、ミルクを飲んで、寝る。本当にそれだけだ。


俺の世話は、あのメガネの女の子が、完全に一人で取り仕切っている。


彼女が自分のことを指差して「エルナ」と言っていたので、おそらくエルナという名前なのだろう。


言葉が通じないからか、あるいは彼女の性格か、彼女は驚くほど無口でほとんど喋らない。


だが仕事ぶりは完璧で、俺が少しでも不快な声を上げれば、昼夜を問わず即座に駆けつけてくれた。


視力が少しずつ発達してきて、俺は自分のいる部屋の様子を観察するようになった。


そこは、俺が想像していた中世の城のイメージとは大きく異なっていた。


石造りの冷たい壁や、隙間風の入る木の窓枠なんてものは一切ない。


壁も天井も、継ぎ目のない滑らかで真っ白な素材で覆われており、常に適度な温風がどこからともなく吹き出し、部屋の温度を完璧な状態に保っているのだ。


部屋の照明も、ロウソクやランプのような火の気配がないのに、天井全体が柔らかく光を放っている。


(なるほど……! ここは王子の部屋だから、壁一面に空調の魔道具が組み込まれていて、天井には最高級の光石が使われているんだな。さすがは王宮、魔法技術が惜しみなく使われてるってわけだ)


俺は、この快適すぎる環境を高度な魔法文明の産物だと解釈して一人で納得していた。


しかし、一つだけ大きな違和感があった。


(……まだ、親の顔を一度も見ていないぞ?)


いくら王族が多忙だとしても、待望の我が子を1ヶ月も放置するだろうか? エルナ以外の人間も一切この部屋に入ってこない。


(もしかして……王位を巡るドロドロの権力闘争が勃発していて、俺は安全な隠し部屋に隔離されているのか? あるいは、俺は身分が低い愛人の子で、正妻の嫉妬から遠ざけられているとか?)


ウェブ小説でよくある『政争に巻き込まれた不遇な王子』設定が頭をよぎる。


(だから、信頼できる凄腕のメイドであるエルナしか出入りできないんだ。なるほど、辻褄が合うぞ)


俺の想像力は、昼ドラ顔負けの宮廷陰謀劇を作り上げていた。


だが、前世で人間関係と過労にすり潰された俺にとって、親の干渉がないことはむしろ都合がよかった。


(よしよし! 面倒な王族の教育も親からのプレッシャーもゼロ! 権力闘争なら俺が大きくなる頃には勝手に決着がついてるだろ。それまでは、この快適な魔法の部屋でダラダラとニート王子として生きてやる!)



【生後3ヶ月】


生後3ヶ月。首がすわり、視界もハッキリしてきた。


俺は、この部屋のさらなる魔法の秘密を発見することになる。


ある日、ふと上を見上げると、俺のベッドの少し上空に、ソフトボール大の銀色の球体がフワフワと浮遊していることに気づいたのだ。


(なんだあれ? 紐で吊るされてもいないのに、完全に宙に浮いてるぞ)


じっと観察していると、その銀色の玉は、俺が寝返りを打つたびに、俺の動きに合わせて自律的にゆっくりと位置を変え、一定の距離を保ちながら常に見守っているのだ。


(……使い魔だ! あるいは、俺を守るための自律型ゴーレムの魔道具か!)


俺は内心で大興奮した。


(やっぱりここは隔離された隠し部屋なんだ。暗殺者対策のために、こんな高度な防衛魔道具まで配置してある。俺の陣営はかなり優秀らしい。安心安心)


エルナの世話は相変わらず完璧だった。


彼女が持ってくるミルクの哺乳瓶も不思議で、落としても絶対に割れない柔らかい透明な素材でできており、時間が経ってもミルクが常に人肌の温かさを保っている。


(魔法瓶でもないのに温度が変わらない魔法の容器、つまり保温の付与魔法をかけた特注品だな。異世界の職人すげえ!)



【生後半年】


生後半年が経過し、俺はハイハイができるようになった。


行動範囲がベッドの端から端まで広がり、体力もついてきた俺は、本格的に魔法の部屋の探索を開始した。


ハイハイでベッドの端まで行き、柵を乗り越え、床をせっせと移動している時だった。


音もなく部屋の扉が開き、エルナが入ってきた。


彼女は、俺がベッドから抜け出したのを確認すると、ツカツカと歩み寄り、無表情のままひょいっと俺を持ち上げ、安全なベッドの中央へ戻した。


「あうー!」


抗議の声を上げる俺を無視し、エルナは何かを思い出したように立ち止まると、おもむろに何もない虚空に向かってスッと指を突き出した。


ピロンッ。


小気味よい音と共に、空中に突如として、青白く光る半透明の絵がフワリと浮かび上がったのだ!


「……っ!?」


俺は目を丸くした。


エルナはその空中の絵を、流れるような指さばきでトントンと操作し始めた。彼女の指の動きに合わせて、絵の中の光の模様や見慣れない文字が次々と切り替わっていく。

(ま、魔法陣……!?)


俺の心臓が早鐘のように打ち始めた。


(すげええええ! 無詠唱で空中に光の魔法陣を展開してる! しかも指先で直接魔力のパスを編み込んで、術式を書き換えてるのか!?)


俺はエルナがただのメイドではなく、俺を護衛するために身分を偽って遣わされた宮廷の凄腕魔法使いなんじゃないかと勘づく。


エルナが操作を終え、光の魔法陣が空気に溶けるように消えると、彼女はじっと俺を見つめてきた。


俺は、期待に胸を膨らませながら、短い腕を虚空に向かって突き出した。


(ステータスオープン!)


念じてみる。 ……何も起きない。


(うーん、やっぱり魔力が足りないのか? いや、エルナみたいに無詠唱でやるには熟練度が必要で、最初はちゃんと言葉に出して呪文を詠唱しないとダメなのかも。でも、まだこの世界の言葉が全然わからないんだよな……。早く言葉を覚えたい!)


彼女は一礼して再び音もなく部屋の奥へと戻っていった。


未だに親の顔すら知らない政争渦中の王子の俺だが、高度な魔法文明という魅力的な要素を前に、モチベーションは爆上がりしていた。

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