11.
王宮の玉座の間。
大理石の冷たい床から、遥か頭上の豪奢な天井へ向けて、青白い光の柱が無数にそびえ立っていた。
マザーシステムが吐き出し続ける未決裁書類のホログラム群である。
その数、およそ2000件。
今この瞬間にも、微かな音を立てて増殖し続けている。
俺は重厚な玉座に深く腰掛け、頬杖をついたまま、眼前に広がる途方もない光の群れを見つめていた。
(……完全に裏目に出た)
国内の法案で星民に嫌われようと足掻くのは、もはや無意味だった。
俺がどんな理不尽な命令を下そうが、火星由来の天才集団である星民たちはそれを試練と解釈し、マザーシステムの深部に眠っていたバグすら浄化してしまった。
結果、11次元の位相空間で演算を行うようになったマザーシステムは、秒間数億回のシミュレーションを行い、国家運営の完璧な最適解を次々と弾き出す。
そして、最終承認を押すのは、絶対権力を持つ俺ただ一人。
もう何をしていいか全く分からない。でもこのまま承認処理マシーンと化せば、俺の命が削られていくことだけは確かだ。
それだけは阻止しなければならない。
どうすればいいのか。システムコアの能力が10万倍になってしまった今、レベル6承認案件が爆発的に増えてしまっている…。
ならばシステムコアをパンクさせればいいのではないか?レベル6承認案件にリソースを回せないくらい、ポンコツにしてやれば…。
俺は視線をわずかに横へ向け、玉座から少し離れた、控えめに立つ女性に言い放つ。
「……エルナ。リディアをここへ呼んで」
俺は前を向いたまま、冷徹な王の顔を作って声をかけた。
数十分後。
灰色の粗末な作業着に身を包んだリディアが玉座の間に足を踏み入れた。
両手には落ち切らない機械油の染み。無造作に束ねた黒髪の奥から、冷ややかな三白眼が俺を真っ直ぐに射抜く。
「お呼びでしょうか、陛下。またご自身が嫌われるための悪巧みのご相談ですか」
「今のシステムコアに、一切のタスクを処理できなくなるほどの物理的な過負荷を与える方法はあるか。完全にフリーズさせたい」
リディアは少し意外そうな顔をした後、腕を組んで考え込んだ。
「……タイタン国内の事象のシミュレーション程度であれば、今のシステムは瞬時に最適解を出してしまいます。完全に機能停止させるには、物理学的な矛盾を演算させるしかありません」
「例えば?」
「空間を強引に引き裂いて時空に穴を開けるような、因果律への物理的な干渉です。システムは矛盾を解決できず、無限の計算ループに陥ってフリーズするはずです」
リディアは淡々と続けた。
「ただし、空間というものは、当然ながら力任せにエネルギーをぶつけても拡散してしまいます。空間を裂くには、まず標的となる座標に、極めて巨大な質量を持った天体を置かなければなりません。その莫大な質量で空間を特異点化して深く沈み込ませて固定する重石……すなわちアンカーです。アンカーで空間を縫い留めて初めて、そこにエネルギーを集中させて時空を裂くことができます」
俺は黙って耳を傾けた。
「当然ですが、アンカーとなる規格外の質量体が存在しない、何もない虚空を標的に指定すれば、システムは実行不能としてすぐにエラーを返し、計算を打ち切るだけです。それでは負荷はかかりません」
(……なるほど。アンカーがないと計算すら始まらないのか。うむ、わからん、何を言ってるんだこいつは)
「絶対にアンカーが存在しない、何もない宇宙空間を標的に指定して、システムに無理やり空間断裂を実行させればいい、そういうこと?」
「はい…」
(よし、そのために莫大なエネルギーを集めろって条件を付け足してやる。そうすれば、システムコアは存在しないアンカーを探し続けながら、エネルギーの果てしない確保にリソースを全振りして、完全にパンクする!)
俺は手元のコンソールを引き寄せた。
(宇宙で一番何もない、適当な方向……そうだ。観測データ上、星屑一つ存在しない完全な暗黒宙域があったはず、そこに設定してやる)
俺は流れるような指さばきで、絶対命令を打ち込んだ。
『ランク6・絶対命令。全リソースを用い、時空干渉によるパラドックス演算を実行せよ。 星が一切存在しない虚空を標的とし、空間を断裂させろ。それに必要な莫大なエネルギーを、手段を問わず、マザーシステムが実行可能な最大効率で至急確保すること。本プロトコルが完了するまで、日常の行政決裁を含む全タスクを凍結する』
俺は実行キーを静かに押し込んだ。
『――ランク6絶対命令を受理。システムコア、全リソースを時空干渉プロトコルに移行。新規の行政決裁プロセスを無期限で凍結します』
無機質な電子音と共に、玉座の間を埋め尽くしていた2000件の書類ホログラムが、フッと空間から溶けるように消滅した。
俺はふかふかの背もたれに深く身を預け、ゆっくりと目を閉じた。
◇
それからの数日間は、まさに天国だった。
俺の目論見通り、マザーシステムからの決裁書類はただの1件も届かなくなった。
「うひょおおおおっ! 最高! 最高すぎる!!」
俺は離れのプライベートルームで、デジタルポテトチップスの袋を抱えながら、歓喜の叫びを上げていた。
ベッドの上をトランポリンのように跳ね回り、床にはジュースの空き瓶が散乱している。
「はっはっは! 見たか! あの憎き書類の山がゼロだ!システムコアは今頃、何もない宇宙空間から一生懸命アンカーを探して、無限ループにハマって完全にパンクしてるはず!」
俺はデジタルポテトチップスを口に放り込み、極めて快適で平穏なニート生活を心ゆくまで満喫していた。
「もう承認なんか一生押してやんないぞ! このままシステムが壊れて、インフラが止まって星民たちが僕をクビにするまで、ずっとゲームしてやるんだから!!」
だが、その甘美な時間は、王宮の外から響くけたたましい緊急サイレンによって唐突に、そして暴力的に破られた。
「陛下! 緊急事態です!」
エルナが、メイドとしての冷静さを完全に失った緊迫した面持ちで部屋に飛び込んできた。
「地球統一政府および火星共和国の連合艦隊が、タイタンの軌道上を完全包囲しました! 全艦、惑星間ミサイルの発射態勢に入っています!」
(…………は?)
俺の手から、ゲームのコントローラーがポロリと床に落ちた。
全身の血の気が一気に引き、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく、狂ったように鳴り始めた。
(えっ!? ミ、ミサイル!? 暴動じゃなくて、地球と火星の軍隊が攻めてきたの!? なんで!?)
膝がガクガクと震え、今にも泣き叫んでベッドの下に潜り込みたくなる衝動を、俺は舌を噛み切るほどの力で必死に耐え抜いた。
俺は冷や汗でびっしょりになった背中をまっすぐに伸ばし、無表情の仮面を顔に貼り付け、ゆっくりとした足取りで玉座の間へ向かった。
玉座に腰を下ろし、震える足を必死に組んでから通信を繋がせる。
玉座の端には、エルナに呼ばれたリディアも控えていた。
空間に、怒髪天を衝くような恐ろしい形相をした地球大統領と火星議長の顔が、巨大なホログラムで大映しになった。
『タイタンの狂王、レオ!!』
地球の大統領が、モニター越しに血走った目で、机を叩き割らんばかりの勢いで怒鳴りつけてきた。
『貴様の暴走AIが、我が地球と火星の自動防衛網をハッキングし、全無人建設ドローン群を強制的に接収した大罪、もはや弁明の余地はない!』
『あろうことか、奪ったドローンで太陽をすっぽりと覆い尽くす超巨大施設を急造し、太陽のエネルギーを独占抽出しようとしている!』
火星の議長が、泡を食って激怒して叫ぶ。
『これは太陽系全体への明確な宣戦布告だ! 直ちに施設を解体し、ドローンを返還せよ! さもなくば、3分後に全艦隊からミサイルを一斉発射し、タイタンを物理的に消滅させる!』
俺の頭の中は、完全に真っ白になった。
(やばいやばいやばい! システムコアのやつ、計算でパンクする前に、地球と火星の防衛網をハッキングしてドローン強奪しちゃったの!?手段を問わずエネルギーを確保しろなんて適当な命令しちゃったせいで!? 11次元AIの実行力舐めてた!!)
喉がカラカラに渇き、胃袋が雑巾のように絞り上げられる感覚。
内心では土下座して靴でも何でも舐めるから許してほしいと懇願していた。
だが、俺は極限の恐怖を胃の奥底にねじ込んだ。
(落ち着け、俺! 逆に考えるんだ! 地球と火星が怒ってるなら、ここで潔く降伏すればいい! システムの暴走でした、もう王様やめるから、タイタンの統治も書類仕事も全部君たちでやってねって言えば、僕の命は助かるしニートにもなれる!?)
俺は冷徹な王としての威厳を限界まで装い、震えそうになる声を低く押し殺し、わざと退屈そうにため息をついてみせた。
「……騒々しいな」
俺はゆっくりと口を開いた。
「君たちがそこまで言うなら、システムは止めてやる。僕も王座を降りよう。だからもう、撃つな。僕の仕事は全部君たちに……」
俺が降伏の意を口にしかけた、まさにその瞬間だった。
『――緊急警報、レッドアラート』
タイタンのマザーシステムのみならず、通信で繋がった地球と火星の司令部でも、同時に腹の底に響くような恐ろしい警報が鳴り響いた。
『太陽系外縁部、セクターX-9より、超極大のエネルギー波束の接近を探知。相対速度、光速の21.9%』
モニターの向こうで、地球と火星のオペレーターたちが一斉に絶望の悲鳴を上げた。
『大統領! 太陽系の外から、未知の高圧縮ガンマ線バーストが飛来しています! この恐ろしい質量と指向性……自然現象ではありえません! 未知の知的生命体による、恒星系殲滅攻撃です!!』
地球大統領と火星議長の顔から、一瞬にして怒りが消え失せ、純粋な恐怖で血の気が引いた。
光速で迫る死のエネルギー。探知した時点ですでに回避不可能。地球の防衛網も火星のシールドも、あんな規格外の宇宙兵器の前では紙切れに等しい。
誰もが太陽系の終わりを覚悟し、絶望に凍りついた。
(えっ!? 宇宙人からの攻撃!?)
『大統領! 回避、間に合いません!!撃墜も出力が足りず相対エネルギー的に不可!!太陽系、壊滅不可避です!!』
モニターの向こうで絶望の叫び声が響き渡る。
俺は玉座の上で完全に固まり、息を止めた。
終わった。
ミサイルどころじゃない。太陽系ごと消し飛ぶ。死ぬ。絶対に死ぬ。




