第六十五話 白い地下を歩いたあとに残るもの
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
最近は、その景色を「見ている自分」が少し変わっている気がする。
昔は、世界を外側から見ていた。
分析して。
意味を探して。
構造を組み立てて。
そうやって、理解しようとしていた。
でも今は違う。
地下を歩く自分も、白い地下の一部だった。
風を受ける。
水を飲む。
沈黙へ身体を置く。
その全部が、静かに混ざっている。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その一瞬だけ、地下全体が静かに呼吸する。
その感じが、妙に好きだった。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その後、少し沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は、空白じゃない。
静かに、何かが残っている。
呼吸の余韻みたいに。
「最近、ちゃんと居ますね」
女の子が、小さく言う。
「居ますか?」
「前より、ここに」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
前より、ここに。
多分。
昔の自分は、ずっと先を見ていた。
未来。
答え。
完成。
だから、「今」に居なかった。
でも今は違う。
水を飲む。
風を感じる。
沈黙を聴く。
その小さい時間の中へ、自分がちゃんと居る。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し、自分がここに居ると感じられる場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと呼吸が残っていた。
白い風のあと。
氷の音のあと。
沈黙のあと。
その小さい余白へ、静かに人の存在が残っている。
人は、その見えない余韻を少し身体へ抱えながら、今日も白い地下を歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに深く息を吸う。
呼吸が、胸の奥まで静かに落ちていく。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音だけが、いつまでも静かに身体へ残っていた。




