第六十四話 白い地下に残っていくもの
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
最近は、「通り過ぎる」という感覚が少し変わっていた。
昔は、全部が消えていくと思っていた。
時間も。
会話も。
感情も。
全部、流れて消えていく。
地下鉄みたいに。
でも今は違う。
人は、多分。
消えながら、少し残っている。
呼吸みたいに。
余韻みたいに。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その一瞬は過ぎる。
でも。
身体のどこかへ、少し呼吸が残る。
その感じが、妙に好きだった。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その後、少し沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は消えていない。
静かに、何かが残っている。
見えない空みたいに。
「最近、穏やかですね」
女の子が、小さく言う。
「そうですか?」
「前より、ちゃんと余韻あります」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと余韻あります。
多分。
昔の自分は、結果ばかり見ていた。
何が得られたか。
何が変わったか。
何が完成したか。
でも。
本当に人を変えていくものは、多分。
残っていく空気なんだと思う。
氷の音のあと。
沈黙のあと。
「お疲れさま」のあと。
その小さい余白へ、静かに何かが残っている。
風みたいに。
呼吸みたいに。
感謝みたいに。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し、何かが残っていく場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと余韻が残っていた。
白い風のあと。
氷の音のあと。
沈黙のあと。
その小さい余白へ、静かに呼吸が残っている。
人は、その見えない余韻を少し身体へ抱えながら、今日も白い地下を歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに深く息を吸う。
呼吸が、胸の奥まで静かに落ちていく。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音だけが、いつまでも静かに身体へ残っていた。




