第六十六話 白い風の中で
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
もう、その景色は冷たく見えなかった。
地下には、最初から風が流れていた。
呼吸が流れていた。
感謝が流れていた。
ただ。
昔の自分は、呼吸を止めていただけだった。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その感じが、妙に好きだった。
完全に分かり合わなくてもいい。
完全に救われなくてもいい。
でも。
少し呼吸が重なる。
少し風を分け合う。
その「少し」が、人を静かに生かしている。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
「水、飲みます?」
「はい」
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は、もう空っぽじゃなかった。
静かに風が流れている。
見えない空が通っている。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その小さい音だけが、静かに身体へ残る。
「最近、穏やかですね」
女の子が、小さく言う。
「そうですか?」
「前より、ちゃんと息してる」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ落ちる。
ちゃんと息してる。
多分。
それだけだった。
人は。
強くならなくてもいい。
全部を理解しなくてもいい。
完成しなくてもいい。
ただ。
少し風を通す。
少し呼吸を混ぜる。
少し、水を飲む。
その小さい繰り返しの中で、人はまた歩いていける。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し、生き物へ戻れる場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、静かに歩く。
地下には、ずっと空があった。
白い風のあと。
氷の音のあと。
沈黙のあと。
その小さい余白へ、静かに呼吸が流れている。
人は、その見えない風を少し身体へ通しながら、今日も白い地下を歩いていく。
風を通しながら。
呼吸を混ぜながら。
少しずつ、空へ開きながら。
物語を書いているつもりでした。
けれど振り返ってみると、
私は牛たちの後ろを、
ただついて歩いていただけだったのかもしれません。
彼らがどこへ向かい、
何を見つけたのか。
その答えは、
読者の皆さまそれぞれの中にあるのだと思います。
世界は不完全で、
人は迷い、
ときどき疲れます。
それでも、
草は生え続けています。
牛たちは、疲れれば立ち止まり、
水を飲み、草を食べ、
呼吸を取り戻して、
また歩き始めます。
同じところへ戻っているようで、
少しずつ、違う場所へ。
歩くたびに、
何かを受け取り、
何かを残していく。
消えたように見えるものも、
本当は消えたのではなく、
形を変えながら、
どこかに残り続けているのかもしれません。
最後まで一緒に歩いていただき、
ありがとうございました。
最後まで歩いていただき、
ありがとうございました。
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Novel Mandriaの一巡目は、ここで終わります。
疲れた牛たちは、白い地下を歩きながら、
少しずつ自分の呼吸を取り戻しました。
自分へ戻ったあと、
人は、誰かと向き合います。
貴方の瞳に映る私と、
私の瞳に映る貴方。
そこには、
自分一人では見ることのできなかったものが、
映っているのかもしれません。
9月5日、Novel Mandriaは二巡目へ。
【鏡の彼方シリーズ】『余白』続編
『瞳の中の私、私の中の瞳』
―貴方を失いたくない私と、自分を失いたくない貴方―




