第五十一話 白い地下を抜ける風
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
最近は、その白さの中に、ちゃんと温度がある気がする。
人の温度。
水の温度。
呼吸の温度。
昔の自分は、多分。
地下を「通り過ぎる場所」だと思っていた。
早く抜けるべき場所。
早く地上へ出るための場所。
でも今は違う。
地下そのものが、少し呼吸を戻す場所になっていた。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その感じが、妙に好きだった。
人は、多分。
同じ方向を見る必要はない。
完全に理解し合う必要もない。
でも。
少し同じ風を吸う。
少し呼吸が重なる。
その小さい同期だけで、人はまた歩ける。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その後、少し沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は、もう怖くなかった。
静かに風が流れている。
見えない呼吸が、少し混ざっている。
「最近、ちゃんと居ますね」
女の子が、小さく言う。
「居ますか?」
「前より、ここに」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
前より、ここに。
多分。
昔の自分は、どこにも居なかった。
未来ばかり見ていた。
答えばかり探していた。
強さばかり追いかけていた。
でも今は違う。
地下を歩く。
風を感じる。
水を飲む。
沈黙へ少し身体を預ける。
その小さい時間の中へ、自分がちゃんと居る。
多分。
人間には、それで十分なんだと思う。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し、生き物へ戻れる場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと風が流れていた。
白い風。
沈黙。
氷の音。
感謝。
誰かの呼吸。
その全部が、静かに混ざっている。
人は、その見えない流れへ少し身体を預けながら、今日も白い地下を歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに深く息を吸う。
呼吸が、胸の奥まで静かに落ちていく。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音だけが、いつまでも静かに身体へ残っていた。




