第五十話 白い地下に残る風
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
その景色は、もう以前とは違って見える。
地下は、閉じた場所じゃなかった。
最初から、ずっと風が流れていた。
ただ。
昔の自分は、呼吸を止めていただけだった。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その感じが、妙に好きだった。
完全に分かり合わなくてもいい。
完全に救われなくてもいい。
でも。
少し呼吸が重なる。
少し風を分け合う。
その「少し」が、人を静かに生かしている。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その後、少し沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は空っぽじゃない。
静かに風が流れている。
見えない呼吸が、少し混ざっている。
「最近、穏やかですね」
女の子が、小さく言う。
「そうですか?」
「前より、ちゃんと力抜けてます」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと力抜けてます。
多分。
昔の自分は、ずっと力を入れ続けていた。
全部を掴もうとしていた。
全部を理解しようとしていた。
でも。
風は、掴めない。
呼吸も、掴めない。
ただ。
通る。
少し身体を抜ける。
少し、誰かと重なる。
その感じだけが、静かに残る。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し、見えない何かが通る場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと風が流れていた。
白い風。
沈黙。
氷の音。
感謝。
誰かの呼吸。
その全部が、静かに混ざっている。
人は、その見えない流れへ少し身体を預けながら、今日も白い地下を歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに深く息を吸う。
呼吸が、胸の奥まで静かに落ちていく。
窓へ、白いLEDが流れていく。
歩き疲れた牛達は、今日も静かに白い地下を歩いている。
草を食べながら。
水を飲みながら。
少しずつ、呼吸を戻しながら。
その白い流れを見つめながら、静かに目を閉じる。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音だけが、いつまでも静かに身体へ残っていた。




