第四十九話 白い地下の深呼吸
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
最近は、その白さが少し柔らかく見える。
地下は、昔と何も変わっていない。
変わったのは、多分、自分の呼吸だった。
昔の自分は、ずっと浅く息をしていた。
考えて。
急いで。
何かを掴もうとして。
閉じたまま、生きていた。
でも今は違う。
少し止まる。
少し水を飲む。
少し風を感じる。
その後で、また歩く。
それだけで、人は少し深く呼吸出来る。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その感じが、妙に好きだった。
完全に分かり合わなくてもいい。
完全に一つにならなくてもいい。
でも。
少し同じ風を吸う。
少し呼吸が重なる。
その「少し」が、人を生かしている。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その後、少し沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は、空っぽじゃない。
静かに、風が流れている。
見えない呼吸が、少し混ざっている。
「最近、ちゃんと休んでますね」
女の子が、小さく言う。
「休んでますか?」
「前より、ちゃんと息抜いてます」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと息抜いてます。
多分。
昔の自分には、それが無かった。
全部を抱えていた。
全部を理解しようとしていた。
全部を背負おうとしていた。
でも。
人は、多分。
少し抜かないと、呼吸出来ない。
少し空ける。
少し止まる。
少し、誰かと空気を混ぜる。
その「間」の中で、人はまた自分へ戻っていく。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し深く呼吸出来る場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと呼吸が流れていた。
白い風。
沈黙。
氷の音。
誰かの「お疲れさま」。
その全部が、静かに混ざっている。
人は、その見えない呼吸へ少し身体を預けながら、今日も白い地下を歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに深く息を吸う。
呼吸が、胸の奥まで静かに落ちていく。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音だけが、いつまでも静かに身体へ残っていた。




