第四十五話 白い地下の呼吸音
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
最近は、その静けさの中に音が聞こえる。
靴音。
遠くの発車ベル。
氷の音。
誰かの小さい笑い声。
そして。
人の呼吸。
昔の自分は、多分。
地下を「無音の場所」だと思っていた。
感情が無い場所。
孤独だけが流れている場所。
でも今は違う。
地下には、ちゃんと呼吸音がある。
人が、水を飲む。
誰かが、沈黙する。
誰かが、小さく「お疲れさま」と言う。
その全部が、白い地下の空気へ静かに混ざっている。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その感じが、妙に好きだった。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その後、少し沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は空っぽじゃない。
静かに風が流れている。
見えない呼吸が、少し混ざっている。
「最近、静かですね」
女の子が、小さく言う。
「そうですか?」
「でも、ちゃんと居ます」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと居ます。
多分。
それが、一番大事だった。
昔の自分は、どこか別の場所ばかり見ていた。
もっと先。
もっと上。
もっと強い何か。
そういうものを探して、ずっと呼吸を止めていた。
でも今は違う。
地下を歩く。
水を飲む。
風を感じる。
沈黙の中へ、少し呼吸を置く。
その小さい時間の中へ、自分がちゃんと居る。
多分、人間にはそれで十分なんだと思う。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し呼吸音が聞こえる場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと呼吸音が流れていた。
白い風の音。
氷の音。
沈黙の音。
誰かが、水を飲む音。
その全部が、静かに混ざっている。
人は、その見えない呼吸音へ少し身体を預けながら、今日も白い地下を歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに息を吸う。
呼吸が、少し深くなる。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音だけが、いつまでも静かに身体へ残っていた。




