第四十二話 白い地下の静けさ
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その景色は、今日も変わらない。
でも。
その変わらなさの中に、静かな呼吸が流れている。
誰かが、水を飲む。
誰かが、小さく笑う。
誰かが、「お疲れさま」と言う。
その全部が、白い地下の空気へ薄く溶けている。
昔は、それが見えなかった。
地下は、ただ冷たい場所だった。
閉じた場所だった。
孤独が流れていく場所だった。
でも今は違う。
地下は、静かに呼吸している。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その感じが、妙に好きだった。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声を聞くだけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その短い同期だけで、場の空気が少し柔らかくなる。
無理に何かを変えなくてもいい。
無理に答えを出さなくてもいい。
ただ。
少し呼吸を混ぜる。
少し風を通す。
それだけで、人はまた歩いていける。
「最近、静かですね」
女の子が、小さく言う。
「そうですか?」
「なんか、ちゃんとここに居ます」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんとここに居ます。
昔の自分は、多分。
ずっとどこか別の場所を見ていた。
もっと上。
もっと先。
もっと強い何か。
そういうものばかり探していた。
でも今は、少し違う。
地下を歩く。
水を飲む。
風を感じる。
その小さい呼吸の中へ、自分がちゃんと居る。
多分。
それだけで十分なんだと思う。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと静けさが流れていた。
ただ。
昔の自分は、静けさを怖がっていた。
呼吸を止めるほど、何かを掴もうとしていた。
でも今は違う。
静けさの中にも、ちゃんと風が流れている。
ちゃんと、人の呼吸がある。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに息を吸う。
呼吸が、少し深くなる。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音を聞きながら、歩き疲れた牛達は、今日も静かに白い地下を歩いていく。




