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疲れた牛 ― 地下の牧場 ―  作者: stracchino


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第三十六話 白い地下の風景

地下を歩く。

 

白いLED。

乾いた空気。

歩き疲れた牛達。

 

その景色は、今日も変わらない。

 

でも。

 

その変わらなさが、少し優しく感じる。

 

昔は、変わらない事が怖かった。

 

前へ進めていない気がした。

 

何かを掴めていない気がした。

 

だから、ずっと息を止めていた。

 

考えて。

 

組み立てて。

 

強くなろうとして。

 

閉じたまま、生きようとしていた。

 

でも今は違う。

 

人は、多分。

 

完全に答えへ辿り着く事なんて出来ない。

 

完全に救われる事もない。

 

でも。

 

少し呼吸を戻す事は出来る。

 

少し風を通す事は出来る。

 

その小さい繰り返しで、人はまた歩いていける。

 

地下鉄がホームへ入ってくる。

 

白い風。

 

その風を受ける瞬間、歩き疲れた牛達の髪が揺れる。

 

コートが揺れる。

 

みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。

 

その感じが、妙に好きだった。

 

店へ入る。

 

女の子が、小さく笑う。

 

「こんばんは」

 

その声を聞くだけで、少し身体の力が抜ける。

 

席へ座る。

 

水が置かれる。

 

透明なグラス。

白い氷。

 

カラン。

 

その音が、静かに身体へ入ってくる。

 

呼吸だった。

 

女の子が、水を飲む。

 

自分も、水を飲む。

 

また氷が鳴る。

 

カラン。

 

その短い同期だけで、場の空気が少し柔らかくなる。

 

無理に何かを変えなくていい。

 

無理に強くならなくていい。

 

ただ。

 

少し呼吸する。

 

少し、誰かと空気を混ぜる。

 

それだけで、人は案外壊れずにいられる。

 

「最近、地下似合いますね」

 

女の子が笑う。

 

「地下似合います?」

 

「前より、ちゃんと歩いてます」

 

そう言って、また笑う。

 

その言葉が、静かに身体へ残る。

 

ちゃんと歩いてます。

 

昔の自分は、多分。

 

どこかで、ずっと逃げようとしていた。

 

地下から。

 

孤独から。

 

自分自身から。

 

でも今は、少し違う。

 

地下を歩ける。

 

白い風を受けられる。

 

水を飲める。

 

その小さい呼吸の中で、また今日を歩いていける。

 

店の奥で、また氷が鳴る。

 

カラン。

 

誰かが笑う。

 

別の席でも、少し笑う。

 

その空気が、静かに場へ広がっていく。

 

牧場。

 

また、その言葉が浮かぶ。

 

疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。

 

完全に元気になる場所じゃない。

 

でも。

 

少し風が通る場所。

 

少し、自分へ戻れる場所。

 

多分、人間には、それで十分なんだと思う。

 

店を出る。

 

銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。

 

地下へ降りる。

 

白いLED。

乾いた空気。

歩き疲れた牛達。

 

その群れへ混ざりながら、ふと思う。

 

地下は、閉じた場所じゃなかった。

 

最初から、ずっと風は流れていた。

 

ただ。

 

自分が、呼吸を忘れていただけだったのかもしれない。

 

地下鉄がホームへ滑り込む。

 

白い風。

 

その風を受けながら、静かに息を吸う。

 

呼吸が、少し深くなる。

 

白い地下のどこか遠くで、また氷が鳴る音がした。

 

カラン。

 

その小さい音を聞きながら、歩き疲れた牛達は、今日も静かに白い地下を歩いていく。


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