第三十三話 風が通ったあと
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その景色は、今日も変わらない。
でも。
その変わらなさの中に、少し安心する自分がいた。
昔は、変わらない事が苦しかった。
前へ進まなければいけない。
もっと強くならなければいけない。
もっと正しくならなければいけない。
そうやって、ずっと息を止めていた。
でも今は違う。
人は、多分。
そんなに急に変われない。
完全に救われる事もない。
でも。
少し呼吸を戻す事は出来る。
少し風を通す事は出来る。
その小さい繰り返しで、人はまた歩いていける。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風を受ける瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その感じが、妙に好きだった。
店へ入る。
女の子が、水を飲んでいる。
カラン。
氷が鳴る。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
自分も、水を飲む。
カラン。
また、少し遅れて。
カラン。
その短い同期だけで、場の空気が少し柔らかくなる。
何か特別な事がある訳じゃない。
深い話をする訳でもない。
人生の答えを見つける訳でもない。
でも。
少し呼吸が深くなる。
少し、自分へ戻る。
多分、人間にはそれで十分なんだと思う。
「最近、なんか軽いですね」
女の子が小さく言う。
「軽い?」
「前より、ちゃんと風通ってます」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと風通ってます。
多分。
それが全部だった。
人は。
完全に閉じない。
少し穴を開ける。
少し風を通す。
少し、誰かと呼吸を混ぜる。
その小さい通気の中で、また歩き始める。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、ゆっくり場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に元気になる場所じゃない。
でも。
少し空気が通る場所。
少し、自分へ戻れる場所。
多分、人間にはそれで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下は、閉じた場所じゃなかった。
最初から、ずっと風は通っていた。
ただ。
自分が、呼吸を止めていただけだったのかもしれない。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに息を吸う。
呼吸が、少し深くなる。
白い地下のどこか遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音を聞きながら、歩き疲れた牛達は、今日も静かに白い地下を歩いていく。




