第三十二話 白い地下の牧場
地下には、朝が無い。
昼も、夜も、同じ白さだった。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
でも。
その変わらなさが、最近は少し好きだった。
人は、毎日そんなに変われない。
急に強くもならない。
急に救われもしない。
でも。
少し呼吸を戻す事は出来る。
少し空気を通す事は出来る。
その小さい積み重ねで、人はまた歩いていける。
地下を歩きながら、ふと思う。
昔の自分は、ずっと出口を探していた。
地下から抜け出したかった。
もっと上へ。
もっと強く。
もっと正しく。
そうやって、息を止めていた。
でも今は違う。
地下そのものが、少し呼吸して見える。
白い風が流れる。
誰かが、水を飲む。
誰かが、小さく笑う。
誰かが、「お疲れさま」と言う。
その全部が、地下の空気へ薄く混ざっている。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声を聞くだけで、少し呼吸が深くなる。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、もう説明無しで身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その短い同期だけで、空気が少し柔らかくなる。
無理に何かを変えなくていい。
無理に強くならなくていい。
ただ。
少し呼吸する。
少し、誰かと空気を混ぜる。
それだけで、人は案外壊れずにいられる。
「最近、なんか柔らかいですね」
女の子が言う。
「そうですか?」
「前より、ちゃんと息してます」
そう言って、小さく笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと息してます。
多分。
それが、一番大事だった。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、ゆっくり場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、また静かに歩き始める場所。
完全に元気になる場所じゃない。
でも。
少し呼吸を戻せる場所。
少し、自分へ戻れる場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
この白い地下は、ずっと牧場だったのかもしれない。
誰も気付かないだけで。
誰もが、静かに草を食べていた。
誰もが、水を飲んでいた。
誰もが、少しずつ呼吸を戻していた。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに目を閉じる。
呼吸が、少し深くなる。
そして今日もまた、歩き疲れた牛達は、白い地下を静かに歩いていく。




