第三十一話 通気
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その景色は、何も変わっていない。
でも。
昔ほど、苦しくなかった。
地下を流れる風が、少し身体へ入ってくる。
白い風。
電車がホームへ入るたび、空気が揺れる。
髪が揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ風を受ける。
その感じが、妙に好きだった。
地下は、閉じた場所じゃない。
今は、そう思う。
無数の小さい穴が開いている。
穿孔。
その穴から、人は少しずつ呼吸を交換している。
店へ入る。
女の子が、水を飲んでいる。
カラン。
氷が鳴る。
その音を聞くだけで、少し肩の力が抜ける。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
自分も、水を飲む。
カラン。
また、少し遅れて。
カラン。
その短い同期だけで、場の空気が少し整う。
無理に何かを話さなくてもいい。
無理に笑わなくてもいい。
ただ。
少し呼吸を混ぜる。
それだけで、人は案外、救われる。
「最近、空気変わりましたね」
女の子が言う。
「空気?」
「前より、ちゃんと通ってます」
そう言って、小さく笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと通ってます。
昔の自分は、多分。
閉じたまま、生きようとしていた。
強く。
正しく。
壊れないように。
でも。
人は、多分。
閉じたままだと、呼吸出来ない。
少し穴を開ける。
少し風を通す。
少し、誰かの呼吸を借りる。
すると。
また歩ける。
店の奥で、誰かが笑う。
別の席で、また氷が鳴る。
カラン。
その全部が、静かに場へ混ざっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に元気になる場所じゃない。
でも。
少し空気が通る場所。
少し、自分へ戻れる場所。
多分、人間にはそれで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
でも、今はその群れが少し愛おしい。
みんな、どこかで呼吸を探している。
どこかで、小さい草を食べている。
どこかで、水を飲んでいる。
そして。
少しずつ、空気を通しながら、今日も静かに歩いている。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに息を吸う。
呼吸が、少し深くなる。
白い地下の向こう側で、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音を聞きながら、歩き疲れた牛達は、今日も静かに夜の地下を歩いていく。




