第三十話 白い地下の向こう側
地下鉄が、ゆっくり駅へ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、歩き疲れた牛達が静かに動き出す。
誰も、何も言わない。
でも。
完全に閉じてもいない。
その感じが、今は少し分かる。
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
遠くで鳴る靴音。
その全部が、以前より柔らかく見える。
地下は変わっていない。
変わったのは、多分、自分の呼吸だった。
昔は、ずっと何かを掴もうとしていた。
答え。
意味。
強さ。
閉じたまま、考えていた。
でも。
人は、多分。
考えるだけでは、呼吸出来ない。
少し沈黙する。
少し水を飲む。
少し風を感じる。
そして、誰かとほんの少し空気を混ぜる。
それだけで、人はまた歩いていける。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声を聞くだけで、少し肩の力が抜ける。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その短い同期だけで、空気が少し整う。
何か特別な事がある訳じゃない。
人生が劇的に変わる訳でもない。
でも。
少し呼吸が深くなる。
少し、自分へ戻る。
多分、人間にはそれで十分なんだと思う。
「なんか、不思議ですね」
女の子が小さく言う。
「何がです?」
「みんな疲れてるのに」
少し笑う。
「ちゃんと、生きてますよね」
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと、生きてますよね。
地下の牛。
銀座の牛。
みんな、少し疲れている。
少し閉じている。
でも。
完全には閉じていない。
小さい穴から、少しずつ空気を通している。
感謝。
沈黙。
氷の音。
「お疲れさま」
そういう、小さい呼吸。
それらを少しずつ身体へ混ぜながら、人は今日も歩いている。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、空が無いと思っていた。
でも、違った。
空は、人と人の間にあった。
沈黙の中。
氷の音の後。
「少し楽でした」の後。
そういう、小さい間の中へ、静かに風が通る。
そして、その風に少し呼吸を預けながら、人はまた歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに息を吸う。
呼吸が、少し深くなる。
白い地下の向こう側で、また誰かが水を飲んでいる気がした。
カラン。
その小さい音を聞きながら、歩き疲れた牛達は、今日も静かに夜の地下を歩いていく。




