第二十八話 少しだけ軽い足音
地下を歩く音が、少し変わった気がしていた。
昔は、もっと硬かった。
急いでいた。
靴音にも、どこか力が入っていた。
でも今は違う。
相変わらず疲れている。
仕事もある。
考える事もある。
人生が急に楽になった訳じゃない。
でも。
少しだけ、呼吸が通っている。
その違いが、歩き方へ出る。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
みんな、今日も地下を流れている。
でも、その群れを見ながら、ふと思う。
人は、多分。
完全に一人で歩いている訳じゃない。
誰かの「お疲れさま」。
誰かの水。
誰かの沈黙。
そういう小さいものを身体へ混ぜながら、歩いている。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声を聞くだけで、少し肩の力が抜ける。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、もう説明無しで身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その短い同期が、静かに場へ広がっていく。
「最近、歩き方違いますね」
女の子が言う。
「歩き方?」
「前より、ちょっと軽いです」
そう言って笑う。
その言葉に、自分も少し笑ってしまう。
軽い。
確かに、そうなのかもしれなかった。
昔は、ずっと息を止めて歩いていた。
閉じたまま。
強くなろうとして。
でも今は、少し違う。
水を飲む。
沈黙する。
風を感じる。
その後で、また歩く。
それだけで、人は少し軽くなる。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、ゆっくり店全体へ広がっていく。
場が呼吸している。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、また歩き始める場所。
完全に元気になる訳じゃない。
でも。
少し呼吸を戻せる場所。
少し、足取りが軽くなる場所。
多分、人間にはそれで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
でも、その群れへ混ざりながら、ふと思う。
この地下には、ちゃんと風が流れている。
ちゃんと呼吸がある。
そして、人はその小さい呼吸を分け合いながら、今日も静かに歩いている。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに息を吸う。
足音が、少しだけ軽かった。




