第二十七話 白い地下の呼吸
地下鉄の窓へ、白い光が流れていく。
その光を見ていると、時々、自分がどこへ向かっているのか分からなくなる。
仕事。
人間関係。
毎日の繰り返し。
全部、白い地下の中を流れている気がする。
でも。
昔ほど、その流れが怖くなかった。
地下には、ちゃんと呼吸がある事を知ったからだと思う。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
みんな、静かに歩いている。
でも。
完全には閉じていない。
誰かが、水を飲む。
誰かが、小さく笑う。
誰かが、「お疲れさま」と言う。
その小さい通気が、地下全体へ薄く広がっている。
店へ入る。
女の子が、少し眠そうに笑う。
「今日、疲れてます?」
「まあ、少し」
「私もです」
そう言って、水を飲む。
カラン。
氷が鳴る。
自分も、水を飲む。
また、少し遅れて。
カラン。
その音だけで、空気が少し整っていく。
無理に何かを話さなくてもいい。
沈黙が、そのまま呼吸になる。
その感じが、妙に落ち着く。
「ここ、不思議ですよね」
女の子が言う。
「何がです?」
「みんな疲れて来るのに」
少し笑う。
「帰る時、ちょっとだけ呼吸してる」
その言葉が、静かに身体へ入ってくる。
ちょっとだけ呼吸してる。
多分、人間にはそれで十分なんだと思う。
完全に救われなくていい。
人生が劇的に変わらなくてもいい。
ただ。
少し息が深くなる。
少し空気が通る。
それだけで、人はまた歩ける。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その全部が、ゆっくり混ざっている。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、また歩き始める場所。
完全に元気になる場所じゃない。
でも。
少し呼吸を戻せる場所。
多分、人間には、そういう場所が必要なんだ。
店を出る。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
でも、今は思う。
この白い地下は、ただの通路じゃない。
無数の小さい呼吸が、静かに行き交う場所なんだ。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに息を吸う。
呼吸が、少し深くなる。
そして今日もまた、歩き疲れた牛達は、白い地下を静かに歩いていく。




