第二十六話 風のあと
終電が近づく時間になると、地下は少し優しくなる。
昼の地下は、どこか硬い。
みんな、前へ進こうとしている。
急いでいる。
閉じている。
でも、夜の地下は違う。
歩き疲れた牛達が、少しだけ呼吸を思い出している。
白いLED。
乾いた空気。
遠くで鳴る発車ベル。
その全部が、少し静かだった。
地下を歩きながら、ふと思う。
人間は、多分。
強くなりたくて、閉じていく。
壊れたくなくて、固くなる。
でも。
本当に必要なのは、逆なのかもしれない。
少し開く。
少し空気を通す。
少し、誰かと呼吸を混ぜる。
それだけで、人は案外壊れずにいられる。
店へ入る。
女の子が、小さく手を振る。
「こんばんは」
その声を聞くだけで、少し肩の力が抜ける。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音を聞くだけで、呼吸が少し深くなる。
不思議だった。
昔の自分は、多分。
こういう小さいものを、理解していなかった。
もっと大きな意味。
もっと明確な答え。
もっと強い関係。
そういうものばかり探していた。
でも。
人間を生かしているのは、多分もっと小さいものだった。
氷の音。
沈黙。
「お疲れさま」
水を飲むタイミング。
そういう、小さい呼吸。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
カラン。
また、少し遅れて。
カラン。
その短い同期だけで、場の空気が少し整う。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、ゆっくり店全体へ広がっていく。
場が呼吸している。
その感じが、妙に好きだった。
「最近、なんか柔らかいですね」
女の子が言う。
「そうですか?」
「前より、空気通ってます」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
空気通ってます。
多分、それが全部だった。
人間は。
完全に閉じない。
少し穴を開ける。
少し風を通す。
その小さい通気の中で、また歩き始める。
店を出る。
銀座の夜風が、頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
でも、今はその群れが少し暖かく見える。
みんな、どこかで草を食べている。
どこかで、水を飲んでいる。
どこかで、少し呼吸を戻している。
その小さい積み重ねで、人は今日も壊れずに歩いている。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに目を閉じる。
風が通り過ぎた後も、身体の中にはまだ少し呼吸が残っていた。




