第二十五話 呼吸する地下
春の雨が降っていた。
地下へ降りる階段が、少し湿っている。
白いLED。
濡れた床。
歩き疲れた牛達。
みんな、静かに地下へ吸い込まれていく。
傘を閉じる音。
濡れた靴音。
遠くで鳴る発車ベル。
その全部が、ゆっくり地下へ沈んでいく。
昔は、この白い地下が少し怖かった。
感情が無い場所。
呼吸を止めた人達が流れていく場所。
そんな風に見えていた。
でも今は違う。
地下は、ちゃんと呼吸している。
人が、水を飲む。
誰かが、小さく笑う。
「お疲れさま」が交わされる。
その度に、空気が少し柔らかくなる。
地下には、無数の小さい穴が開いている。
穿孔。
その穴から、人は少しずつ呼吸を交換している。
店へ入る。
女の子が、水を飲んでいた。
カラン。
氷が鳴る。
その音を聞くだけで、少し安心する。
席へ座る。
「今日は静かですね」
「雨だからですかね」
そう言って、少し笑う。
その笑い方が、柔らかかった。
完全に元気な笑いじゃない。
でも。
ちゃんと呼吸している笑いだった。
その感じが、妙に好きだった。
水を飲む。
女の子も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その小さい同期だけで、空気が少し整っていく。
無理に話さなくてもいい。
無理に救わなくてもいい。
ただ。
少し呼吸を混ぜる。
少し感謝を渡す。
それだけで、人はまた歩ける。
「なんか、ここ牧場ですね」
ふと、女の子が言う。
少し笑ってしまう。
「疲れた牛の?」
「そうです」
また笑う。
その後、少し沈黙する。
でも、その沈黙は苦しくなかった。
静かに空気が流れていた。
その感じを見ていると、ふと思う。
人間は、多分。
完全に理解し合うために居るんじゃない。
もっと、小さいものなんだ。
少し通じる。
少し呼吸を貸す。
少し、相手の疲れを軽くする。
それだけ。
でも。
その小さい通気の積み重ねで、人は壊れずに生きていける。
店を出る。
地下へ降りる。
白いLED。
湿った空気。
歩き疲れた牛達。
でも、今は思う。
この地下は、閉じた場所じゃない。
巨大な牧場なんだ。
疲れた牛達が、静かに草を食べる場所。
水を飲む場所。
少し呼吸を戻す場所。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに息を吸う。
呼吸が、少し深くなる。
そして今日もまた、歩き疲れた牛達は、白い地下を静かに歩いていく。




