第十六話 氷の音
夜が深くなるほど、店は静かになる。
最初は賑やかだった席も、少しずつ声が落ちていく。
笑い声。
グラスの音。
遠くで誰かが水を頼む声。
その全部が、ゆっくり沈んでいく。
その時間が、少し好きだった。
店の空気から、余分なものが抜けていく。
最後に残るのは、呼吸だけだった。
女の子が、水を飲む。
カラン。
氷が、小さく鳴る。
その音を聞いていると、ふと思う。
人間は、多分。
音で呼吸している。
言葉じゃなく。
氷の音。
沈黙。
笑った後の静けさ。
そういうもので、少しずつ同期している。
「疲れてます?」
女の子が聞く。
「まあ、少し」
「私もです」
そう言って笑う。
でも、その笑い方は、どこか柔らかかった。
疲れている。
でも、完全には閉じていない。
少し空気が通っている。
その感じが、妙に安心する。
水を飲む。
氷が鳴る。
カラン。
また、少し遅れて。
カラン。
その繰り返しを聞いていると、店全体がゆっくり呼吸している気がした。
銀座の牛達。
地下の牛達。
みんな、少し疲れている。
でも。
水を飲み。
草を食べ。
感謝を混ぜながら、また歩いている。
完全に元気じゃなくてもいい。
完全に理解されなくてもいい。
少し呼吸が通う。
それだけで、人は案外、壊れずにいられる。
店を出る。
銀座の夜は、少し雨の匂いが残っていた。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた風。
歩き疲れた牛達。
その群れの中へ混ざりながら、ふと思う。
昔は、この白い地下が少し怖かった。
閉じた場所に見えていた。
でも今は違う。
ここには、無数の小さい穴が開いている。
人は、その穴から少しずつ呼吸を交換している。
完全に孤独ではない。
完全に一つでもない。
ただ。
少し通じる。
少し同期する。
その小さい繰り返しで、人は今日も歩いている。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに目を閉じる。
遠くで、また氷が鳴る音がした気がした。




