第8話 存在しない人物の記録
さて、八話になります。
亡くなった時の記録はあるけど
何処から来たのか分からない祖父。
その謎に迫ります。
依頼人は、三十代の女性だった。
名をイゾルトといった。ヴェルタから二日ほど離れた町から来たという。
旅装のままうちに現れて、椅子に座るなり「祖父の出生記録を調べてほしい」と言った。
用件が明確で、回りくどいところがない。好感を持った。こういう人は話が早い。
「祖父の名前は」
「ヴィルです。ヴィル・タウネ。六十年ほど前に生まれたはずなんですが——どの記録にも出てこないんです」
「どこで調べましたか」
「生まれたと聞いている町の記録所と、出生登録の写しを持つ図書館を二ヶ所。どこにも名前がありません」イゾルトは言った。
「祖父は十年前に亡くなりました。
亡くなったときの記録は残っているのに、生まれたときの記録がない。
戸籍上、存在しない人間が、なぜ存在していたのか」
持参した書類を受け取った。
祖父の死亡記録、土地の権利書、家族の記録——どれにも「ヴィル・タウネ」の名前は出てくる。
でも出生に関するものがない。
「少し調べさせてください。図書館に行ってきます」
「わかりました。いつまで待てばいいですか」
「今日中には何か」言ってから、付け加えた。
「ただ——覚悟しておいてほしいことがあります」
「なんですか」
「記録が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。見つかった記録が、想像と違う内容の場合もあります。それでも調べますか」
イゾルトはしばらく黙った。
「……祖父のことを、知りたいんです。
どんな内容でも」
「わかりました」
図書館に向かってオーリンに事情を話すと、老司書は少し考えてから棚の奥へ消えた。
大判の台帳を二冊抱えて戻ってきた。
「六十年前の出生記録の写しだよ。大陸の主要な町のものが収まっている」
「ヴィル・タウネという名前で探せますか」
「探せるが——名前を変えていた可能性があれば、別の方法がいいかもしれない」
「別の方法というのは」
「特徴で絞る。時期、性別、出身地の可能性がある地域——組み合わせれば候補を絞れる」
二人で台帳を調べ始めた。
イゾルトから聞いた情報を整理すると、祖父は六十年前に大陸の北部で生まれたらしい。
北部の訛りがあったと孫のイゾルトは言っていた。職業は薬師で、三十代でヴェルタ近くの町に移住してきた。
北部の出生記録を調べると、六十年前に生まれた男性は相当な数になる。
でも「後に薬師になった」「南部に移住した」という条件を重ねていくと、少しずつ絞られてくる。
二時間ほど調べたところで、オーリンが一つのページを指さした。
「この記録はどうかね」
覗き込んだ。六十一年前、北部の小さな村の出生記録。男児、名はヴィルヘルム。
父の名は記載なし。母の名はタウネ・ルース。
「タウネは母親の名前だ」オーリンは静かに言った。
「子供が母方の名前を名乗っている」
父の名が記載されていない。それが何を意味するか——すぐわかった。
「私生児だったということですか」
「記録上は、そうなる」
その記録に触れた。かすかな歪みがある。悲しみの色。
でもそれは記録を書いた人間の感情——母親が、この子の出生を届け出たときの、複雑な感情だ。
「ヴィルヘルムが名前を変えた可能性がありますか」
「名前を縮めることはある。ヴィルヘルムをヴィルと呼ぶのは自然だね」
イゾルトのところへ戻った。
「祖父の記録が、見つかったかもしれません。
ただ——少し聞かせてください。
祖父は自分の生い立ちについて、何か話していましたか」
イゾルトは首を振った。
「ほとんど何も。
子供の頃のことを聞いても、笑って話題を変えていました。
北の方の出身だとだけ」
「父親については」
「一度も聞いたことがありません。
祖母もいなかったので——祖父が若い頃のことは、家族の誰も知らないんです」
ゆっくり話した。
見つかった記録のこと、名前のこと、父親の記載がなかったこと。
イゾルトはしばらく黙って聞いていた。
「……だから記録がなかったんですね」ゆっくり言った。
「別の名前だったから。名前を変えて、生まれた場所も言わなかった」
「そう思います」
「なぜ」
少し考えた。
「記録からだけでは、理由まではわかりません。
でも…父親がいない子供として生まれることは、当時は難しいことが多かった。
差別もあったし、生きにくさもあった。
名前を変えて、出身地を明かさないことで——新しい場所で、一から始めた」
イゾルトは手の上の書類を見た。
「祖父は、自分で自分の記録を消したんですね」
「消したというより——別の自分を作った、ということかもしれません」
私は、言葉を選んで言った。
「新しい場所で、薬師として、家族を持って生きた。
それは本当のことです。記録上の名前が違っていても」
長い沈黙が落ちた。
「祖父は——幸せだったと思います」イゾルトはゆっくり言った。
「笑っている人でした。
家族を大切にして、仕事を愛して。
記録がなくても、私たちの中にちゃんといます」
何も言わなかった。
「でも——知れて良かった」イゾルトは続けた。
「どんな事情があったにしても、祖父がどこから来たか。
それを知りたかったから来ました」
「記録を正式に写しとして残しますか」
彼女の希望を、きちんと確認したいと思い聞いた。
「ヴィルヘルム・タウネとしての出生記録を、ヴィル・タウネと同一人物である可能性が高いという形で」
イゾルトは少し考えてから、頷いた。
「お願いします。
祖父の記録を、ちゃんと残したい」
写しを作り終えたのは、夕方だった。
イゾルトは受け取り、丁寧にしまった。
「ありがとうございました」
「お役に立てて良かったです」
イゾルトが帰ったあと、しばらく窓の外を見た。
自分の記録を消して、新しい場所で新しい名前で生きた人間。
それは逃げたのか、新しく生まれ直したのか。
私には、少しだけわかる気がした。
この町に住み移って来た私にとって。
ヴェルタの夕暮れが、石畳をゆっくりと染めていた。
第八話終了。九話に続く。
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