第9話 二つの本物の遺言状
今回の依頼は、2通の遺言状。
さて、どっちがホンモノでしょうか?
それとも、どっちもニセモノでしょうか?
珍しく、依頼が二人同時に来た。
兄のカイと弟のシムは、四十代と三十代の兄弟だ。
父親の代から続く乾物商を営んでいる。
二人は別々に、でも同じ日の午前中に、仕事部屋の扉を叩いた。
先に来たのはカイで、続いてシムが来た。
扉を開けて兄の顔を見た瞬間、シムが少し驚いた顔をした。
険悪にはならなかったが、二人そろって「なんでいるんだ」みたいな空気になった。
「まあ、座ってください。二人一緒に聞きます」
二人は並んで椅子に座った。
向かい合ってではなく、隣り合わせに。
それだけで、この兄弟がどういう関係かわかった気がした。
仲はいいけど、肝心なことを話せてない、そういうタイプだ。
二人が取り出したのは、それぞれ一通の遺言状だった。
受け取って並べた。
同じ日付——それが目に入った瞬間、手が止まった。
同じ日付で、内容が正反対。
カイのは「店は長男カイが継ぐ」、シムのは「店は売却し、代金を二人で等分する」。
署名も日付も、全部同じ。内容だけがまるきり違う。
両方に触れた。
歪みがない。
どちらにも。
「これ、同じ日に書かれたんですか」
「そうらしいんです」カイが言った。
「父が亡くなって、遺品を整理していたら出てきて。私はこちらを、シムはそちらを受け取っていました」
「父に呼ばれて、別々に渡されました」シムが言った。
「私が先で、兄さんが後だったかな」
「逆だ」カイが言った。「俺が先だった」
「そうでしたっけ」
言い争いにはならなかった。
二人とも、困惑した顔をしている。
「法的にはどちらが有効ですか」カイが聞いた。
「同じ日付だと、どちらが優先されるかは判断が難しい」正直に言った。
「通常は後に書かれた方が有効ですが、同じ日なら判断できない。
法律家に持ち込んでも、すぐには解決しないと思います」
「父は何がしたかったんでしょう」シムがぽつりと言った。
「わざとこんなものを残すとは思えないけど——でもそうなっている」
「お父さんはどういう人でしたか」
「真面目な人でした」カイが答えた。
「商売に誠実で、約束を守る人で。いい加減なことをする人じゃなかった」
両方に歪みがない、ということは、どちらも心から書いた。
真面目で約束を守る人間が、同じ日に矛盾する二通を残した。
これ、絶対わざとだ。
「少し預かっていいですか。調べてみます」
私は、首をかしげる二人に、言い渡した。
※※
オーリンに話を聞きに行くと、老司書は二通の契約書を丁寧に見た。
「面白いね」
「面白いですか、そこは」少し突っ込んでしまった。
「意図的だと思わないかい」
老司書は静かに言った。
「真面目で約束を守る人間が、同じ日に矛盾する二通を残した。
しかもそれぞれの息子に別々に渡した。わかっていてやっている」
「……ですね。でも何のために」
「兄弟は仲が良いと言っていたね」
「はい。向かい合って座らずに、隣り合って座っていました」
「仲が良いが——肝心なことを話し合ったことがなかったのかもしれない」オーリンはゆっくり言った。
「店のことを。それぞれが本当は何を望んでいるかを」
あ、と思った。
「父親は知っていた。
カイが店を継ぎたいと思っていることも、シムが店に縛られたくないと思っていることも。
でも二人は、お互いにそれを言えていなかった」
「そうだろうね」
「だから——矛盾する二通を残した。
どちらが正しいかを決めるためではなく、話し合わせるために」
「そう」オーリンは言った。
「遺言状の形を借りた、父親の仕掛けだよ」
「でも——下手をすれば、兄弟仲が壊れる危険もあった」
「そうだね」老司書は静かに言った。
「賭けだったと思う。
でも——仲の良い兄弟なら、話し合える。そう信じていたんだろう」
両方に触れた。歪みがない。どちらも純粋に書かれた文字だ。
どちらも本物——それは「どちらかを選べ」ではなく「二人で決めろ」という言葉だった。
※※
夕方、ふたたび兄弟と向かい合う。
「一つ聞かせてください。
お父さんは、店についてあなたたちと話し合ったことがありましたか。
カイさんが継ぎたいと思っていること、シムさんが売ってもいいと思っていること——お互い、知っていましたか」
二人が顔を見合わせた。
「……俺は」カイがゆっくり言った。
「シムが店をどう思っているか、聞いたことがなかった。継ぐのは当然俺だと思っていたから」
「私も」シムが言った。
「兄さんに店を押しつけるのが悪いと思って、売ってしまえば兄さんも自由になれると思っていた。
でも——兄さんが本当はどうしたいか、聞いたことがなかった」
沈黙が落ちた。
「お父さんは、知っていたと思います」言った。
「二人がお互いの気持ちを言えていないことを。だから——矛盾する二通を残した」
「どういうことですか」カイが、ちょっと驚いて聞く。
「どちらの契約書も、本物です。歪みがない。
お父さんが心から書いた文字です。
でも——どちらが正しいかは、決めていなかった。
二人に話し合わせるために、わざとそうした。
法的にはどちらが優先されるか決めにくい。
だから否応なく、二人で話し合うしかない。
お父さんは、それを知っていて、こういう形にした——私にはそう思えます」
長い沈黙だった。
カイが最初に口を開いた。
「……父らしい」低い声で言った。
「回りくどいことをする人でした。
直接言えばいいのに、こういう形にする」
「でも」シムは少し笑った。泣いているのか笑っているのか、わからない顔だった。
「ちゃんと、考えてくれていた」
「席を外しましょうか」と、わたしは二人に聞いた。
「兄弟で話してください」
「いてください」カイがすぐさま答える。
「記録師さんに、聞いていてほしい」
頷いて、少し後ろの椅子に座った。
兄弟が話し合うのを、黙って聞いていた。
カイは、店が好きだと言った。
父から引き継いだものを守りたいと言った。
でも——シムに無理をさせたくないとも言った。
シムは、店を売ることを望んでいたわけじゃないと言った。
ただ兄が縛られているように見えて、解放してあげたかっただけだと言った。
「縛られていない」カイは言った。
「好きでやっている」
「そうなんですか」シムは少し驚いた顔をした。
「知らなかった」
「お前こそ——売ってもいいと思っていたのか」
「いいとまでは思っていませんでしたが、兄さんのためならと」
二人はしばらく黙った。
「俺たち、ちゃんと話したことがなかったんですね」シムが静かに言った。
「なかったな」カイも静かに言った。
「仲がいいから、かえって言えなかった。もめたくなくて」
「父は、それを知っていた」
「知っていたんだろうな」
また沈黙。
でも今度の沈黙は、さっきとは違う質のものだった。
「店は継ぎます」カイがこちらを向いて言った。
「シムには、相当額を渡す形で。それでいいか」
「俺はそれで構いません」シムが言った。
「兄さんが好きでやっているなら」
「正式な合意書を作りますか」
「お願いします」
二人は今度も、同じタイミングで言った。
なんか、ちょっと可愛かった。
合意書を作り終えたのは、夕暮れ近くだった。二人が署名して、それぞれ一部ずつ持っていった。
扉のところで、シムが振り返った。
「記録師さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「父は——うまくいくと、本当に思っていたんでしょうか。
こんな賭けに出て」
二人は、真剣に聞いてきた。私は部外者だけど、少し考えた。
「わかりません。でも——どちらの契約書にも、歪みがなかった。
嘘もなく、迷いもなく、ただ書いた。
それは——信じていた人間の文字です」
「俺たちを、信じていた」
「そう思います」
シムは少し黙ってから、頷いた。
「ありがとうございました」
扉が閉まった。
テーブルの上に残った二通の古い契約書を見た。
父親は、正しい答えを用意していなかった。
正しい答えを作るのは、子供たちの仕事だと思っていた。
それが、この二通の意味だった。
二通を重ねて、丁寧に封筒に入れた。
明日、二人に届けよう。
これは兄弟が持っているべきものだから。
ヴェルタの夜が、静かに始まっていた。
第九話終了。10話に続く。
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