第7話 記録師を探している記録
エイダの師匠の話が登場です。
従来の話と、多少雰囲気が違います。
楽しんでもらえたら幸いです。
それは、いつものようには始まらなかった。
依頼人が訪ねてくるわけでも、誰かに呼ばれるわけでもない。
ただ——封筒が、そこにあった。
朝、仕事部屋の扉を開けた瞬間、私はすぐに気づいた。
机の上に、見覚えのない封筒が一通、平らに置かれていた。
昨夜帰るときには、なかった。
絶対に。
扉には鍵をかけていた。
窓も閉まっていた。
なのに、どこから入ったのか——まったくわからない。
私は恐る恐る封筒を手に取った。
宛名は「記録師エイダ殿」。
差出人の名前はない。
消印もない。
封蝋もない。
ただ、上質な紙がきれいに折りもなく、そこに置かれていた。
触れた瞬間、かすかな感触が走った。
歪みではない。
呼びかけるような——静かで、でも確かな意志の感触。
誰かがこれを私に届けようとした。
その意志だけが、紙の上に残っている。
……生きている人間の意志か、死んだ人間の意志か——それさえ、わからなかった。
私はゆっくりと封を開けた。
中に入っていたのは、一枚の紙だった。
丁寧な字で、こう書いてある。
「ある人物の人生を、正式な記録として残してほしい。
その人物は、文字を愛した記録師だった。
大陸のある都市で長く仕事をし、文字の歪みを読む特別な能力を持っていた。
晩年、ある組織の不正に関わり、記録を消された。弟子を一人持ったが、弟子とは最後まで再会できなかった。
名前は書かない。あなたなら、わかるはずだから。
報酬はないが、ただ、記録してほしい。」
署名は、なかった。
私はしばらく、紙を持ったまま立ち尽くした。
読み返した。もう一度、読み返した。
文字を愛した記録師。
文字の歪みを読む能力。
ある組織の不正。
記録を消された。
弟子を一人持った。
一つ一つは、どこにでも当てはまりそうな描写だ。
でも——重なる。
全部、重なる。
私の頭の中に、一人の人物の顔が浮かんだ。
浮かんで——すぐには、打ち消せなかった。
机の上にはペンと羊皮紙がある。
昨日の仕事の続きが待っている。
でも今日は、そちらに手が伸びなかった。
私の手が、わずかに震えていた。
師匠のことを、私はあまり人に話さない。
話せる相手がいない——というのが、正確だ。
師匠と出会ったのは、私が十六の頃だった。
大陸の大きな都市で、私はある法務事務所の雑用をしていた。
そこに時々依頼で来ていた記録師が、師匠だった。
最初に声をかけてきたのは師匠の方だった。
「お前、文字に触るとき、顔が変わるな」
意味がわからなかった。
師匠は「文字の歪みが見えているだろう」と続けた。
見えていた。ずっと前から。
でも、それが特別なことだとは思っていなかった。
誰でもそうなのだと思っていた。
「違う」と師匠は言った。
「私と、お前にしかできないことだ」
それが、すべての始まりだった。
師匠のもとで四年間、記録師の仕事を学んだ。
文字の扱い方、インクの選び方、依頼人との向き合い方——そして、文字の歪みをどう読むか、どう使うか。
師匠は厳しかったが、理不尽ではなかった。
私が間違えれば叱り、正しくできれば何も言わなかった。
何も言わないことが師匠なりの認め方だと気づくのに、一年かかった。
二十歳になる頃、師匠が言った。
「そろそろ一人でやれる。組織に入ってみるか」
組織というのは、大陸の主要都市に拠点を持つ商業ギルドの連合だ。
公証や記録の業務を一手に引き受けており、腕のいい記録師を常に求めていた。
師匠も若い頃そこで働いた経験があり、伝手を持っていた。
私は入った。
師匠の紹介で、あっさりと採用された。
最初の一年は、ただ仕事をこなした。
契約書の作成、証言の記録、古文書の解読——量は多かったが、内容は難しくなかった。
おかしいと思い始めたのは、二年目の終わりからだった。
扱う文書の一部に、歪みがある。
改竄ではない。でも何かが、ずれている。
最初は自分の感覚がおかしいのだと思った。
でも歪みは消えなかった。むしろ増えていった。
師匠に手紙を書いた。「組織の文書に歪みを感じる。どうすればいいか」と。
返事は、来なかった。
一週間待って、もう一度書いた。また返事がなかった。
そして三年目の春——師匠の消息が途絶えた。
住んでいた場所を訪ねると、もう誰も住んでいなかった。
師匠の登録があったギルドに問い合わせると、「記録がない」と言われた。
消えた。
私は組織の文書をもう一度調べた。
歪みの正体を確かめようとした。
そして見つけた——組織が長年にわたって行ってきた不正の証拠を。
逃げたのは、その日の夜のことだった。
三年前のことだった。
図書館に向かった。
オーリンさんは受付の近くの椅子に座って本を読んでいた。
珍しい場所にいる、と私は思った。
いつもなら棚の奥か梯子の上にいる。まるで待っていたかのような場所だった。
私が近づくと、老司書は顔を上げた。
その目が、いつもより少し注意深い気がした。
「どうしたかね、そんな顔をして」
「これが、今朝届いていました」私は紙を差し出した。
「部屋に鍵をかけていたのに、机の上に置いてあって」
オーリンさんは紙を受け取り、読んだ。
表情は変わらなかった。
穏やかなまま、紙を返してくる。
「面白い依頼だね」
「面白い、で済む話じゃないと思いますが」私はオーリンさんを見た。
「この描写が、師匠に当てはまります。全部」
「そうかい」
「そうかい、じゃなくて」私は紙を見た。
「師匠が消えたのは、私が組織を逃げ出す直前のことです。手紙を出しても返事がなかった。
住んでいた場所も空になっていた。
記録も消えていた——私が組織を出て三年間、何も手がかりがなかった」
オーリンさんは黙って聞いていた。
「この依頼が師匠に関係するものなら——師匠が生きているなら、なぜ直接来ない。死んでいるなら、誰がこれを送ってきた」
「それを調べるのが、今日の仕事ではないかね」オーリンさんは立ち上がった。
「手伝いましょう」
調べ始めたのは、昼前。
まず、依頼の文面を手がかりに範囲を絞る。
「ある都市で長く仕事をした記録師」
「文字の歪みを読む能力を持っていた」
「ある組織の不正に関わった」——この三条件が重なる人物の記録を探す。
文字の歪みを読む能力は、ひどく珍しい。
師匠から「私とお前にしかできない」と言われたのは、本当のことだった。
記録師のギルド台帳にも、この能力を持つと登録されている者はほとんどいないはずだ。
オーリンさんが書棚から台帳を何冊か引き出してきた。
大陸各地の記録師の登録台帳の写しだ。
「ヴェルタの図書館には、大陸の主要なギルドの写しが届いている。
十五年分ほどなら調べられるよ」
十五年。師匠が消えたのは七年前だ。
範囲に入る。
私は台帳を開いた。
名前と、所属都市と、専門分野が一覧になっている。
「文字の歪みの感知」という専門を持つ記録師は——大陸全土で、二名しかいなかった。
「二人」思わず、声に出してしまった。
「珍しい能力だからね」オーリンさんは静かに言った。
二名のうち一名は、私自身だ。
もう一名は…七年前に登録が抹消されていた。
抹消の理由は「所在不明」。
名前は、私が知っている名前だった。
テーブルの上の紙を見た。
「あなたなら、わかるはずだから」という一文が、目に入る。
私はしばらく、台帳のページを見つめていた。
七年前の抹消。師匠が消えた時期と——一致する。
「登録の抹消は、誰が申請できるんですか」
「ギルドの本部、あるいは当人が申請することが多い」オーリンさんは言った。
「所在不明の場合は、一定期間連絡がなければ自動的に抹消されることもある」
「師匠が自分で申請した可能性もある?」
「あるね」
自分で記録を消した。わざと所在不明にした。
逃げるために。
逃げた先が、どこかにある。
「もっと詳しい記録は残っていますか。
師匠がどの都市で、どんな仕事をしていたか」
「少し待ちなさい」
オーリンさんは書棚の奥へ消えた。
梯子を上る音がした。
しばらくして、埃をかぶった薄い冊子を持って戻ってきた。
「各地の公証記録の断片だよ。
師匠の名前で登録された仕事の記録が、いくつかある」
私は冊子を開いた。
師匠の名前で記録された仕事が、十数件並んでいた。
都市の名前、依頼の種類、日付——それを辿ると、師匠がどこで何をしていたかの輪郭が見えてくる。
最後の仕事の記録は、七年前の秋だった。
私が手紙を出したが返事がなかった、あの時期と一致する。
最後の仕事の依頼人は——私が知っている組織の名前だった。
手が止まった。
「師匠は、私が入った組織の仕事をしていた」
「そうなるね」オーリンさんは静かに言った。
「師匠が私をその組織に紹介したのは——師匠自身がすでに組織と関わっていたからか」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」老司書は言った。
「記録からわかるのは事実だけだ。
師匠の意図までは読めない」
私はしばらく黙った。
考えたくないことが、頭の隅に浮かんでいた。
師匠は知っていたのではないか。
組織の不正を。
私を送り込んだのも、知っていたからではないか——。
でも——師匠の最後の仕事の記録の直後に、記録が消えている。
師匠も何かを感知して、逃げた。
あるいは、消された。
どちらなのか、記録からはわからない。
その後も調べを続けたが、それ以上の手がかりは出なかった。
師匠がどこへ行ったか。
今も生きているか。
この依頼を送ってきたのが誰なのか——何一つ、わからないままだった。
夕方、私は羊皮紙を広げた。
霧苔インクを含ませたペンを手に取る。
記録師として、正式に記録する。
事実だけを、正確に。
名前。
専門とした能力。
仕事をした都市。
仕事の期間。
関わった依頼の記録。
そして——記録が消えた日付と、その状況。
書きながら、師匠の声を思い出していた。
「記録というのは、あったことを残すためにある。
消えても、記録があれば、あったことになる」
師匠がそう言ったのは、弟子入りして最初の冬のことだった。
炉の前で、二人でインクを温めながら。
「消えたらどうなるんですか」と私は聞いた。
「消えた記録は、なかったことになる。
でも…記録師が覚えていれば、なかったことにはならない」
あのときは意味がよくわからなかった。
今は、少しわかる気がした。
書き終えたとき、オーリンさんが隣に立っていた。
「見てもいいかい」
私は紙を差し出した。
老司書はゆっくりと読んだ。
読み終えて、紙を返してくる。
「よく書けている」
「全部はわかりませんでした」と私は言った。
「空白が多い。師匠が今どこにいるか、生きているかどうかさえ」
「記録というのは、そういうものだよ」オーリンさんは静かに言った。
「全部埋まることは、めったにない。でも空白があっても、記録は記録だ」
私は完成した記録を見た。
師匠の名前が、そこにある。
消されたはずの名前が、今日、記録として存在している。
「この依頼を送ってきたのは誰だと思いますか」もう一度、聞いた。
オーリンさんはしばらく黙った。
「……送ってきた人間が誰であれ」老司書はゆっくり言った。
「あなたに届いたということは、あなたに残してほしかったということだろう。
それで十分じゃないかね」
「十分じゃないです」私は言った。
「師匠が生きているなら、会いたい。
死んでいるなら、ちゃんと知りたい。
どちらかわからないまま、三年間来ている」
「七年間だよ」オーリンさんは静かに言った。
「師匠が消えてから、七年だ」
私は少し驚いた。
「……そうですね」
「三年前にヴェルタに来る前も、あなたはずっと探していた」老司書は言った。
「組織にいる間も、逃げながらも」
私は黙った。
オーリンさんがそこまで知っているとは、思っていなかった。
どこまで知っているのか——聞きたかったが、今日は聞けなかった。
「オーリンさんは、師匠を知っていますか」私は静かに聞いた。
「直接」
穏やかな目が、私を見返した。
長い沈黙だった。
「さあ」
私は息を吐いた。
いつもの「さあ」だ。
でも今日の「さあ」は——これまでで一番、重かった。
否定でも肯定でもない。ただ、何かを抱えている沈黙だった。
私は記録を丁寧に折りたたみ、封筒に入れた。
図書館の保管棚に収める。
ヴェルタの記録として、正式に。
「ありがとうございました」
「礼には及ばないよ」老司書は書棚に向き直った。
「それがここの仕事だから」
私は図書館を出た。
外はもう夕暮れだった。
水路の水が、オレンジ色に染まっている。
石畳が光を返している。
師匠の記録は、今日からここに存在する。
消されたはずの名前が、ヴェルタに残った。
それが師匠への裏切りなのか、それとも師匠が望んでいたことなのか——私にはまだわからなかった。
でも今日できることは、やった。
鐘楼から夕方を告げる鐘が鳴り、私はゆっくりと仕事部屋への石畳を歩いた。
背後で、図書館の扉が静かに閉まる音がした。
第七話終了。八話に続く。
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