第6話 誰も読めない遺言状
第六話になりました。
今回は、読めない遺言状です。
お楽しみ頂けましたら幸いです。
ドレン家の当主が死んだのは、霧の深い朝のことだった。
ヴェルタで一番古い家系のひとつ。九十を超えていたという。
長い生涯だった、と誰もが言った。
古老の何人かは目を赤くしていた。
問題が起きたのは、翌日だ。
老人の息子のカルと娘のベルタが、揃って仕事部屋に来た。
五十代と四十代。二人とも困惑と疲労がごっちゃになった顔をしている。
葬儀の準備で眠れていないのだろう、目の下に影がある。
「父の遺言状なんですが」
カルがテーブルに書類を置いた。
「誰にも読めないんです」
受け取った。
文字は書いてある。
墨の跡は明確で、行も整っている。
紙も上質で、書き方も丁寧だ。
老人が心を込めて書いたことはわかる。
でも——どの文字も、まったく見たことのない形だった。
既存のどの言語とも一致しない。
「法律家に見せたんですが、読めないと言われました」
ベルタが言った。
「若い頃から変わった趣味の人で……」
「普通に書いてくれれば良かったものを」
カルは首を振った。
「財産の分配が不明確なままでは、困ることも出てきます」
書類に触れた。
歪みがない。
それが一番驚いた。
これだけ意味不明な文字で書かれているのに、歪みがまったくない。
嘘なし、改竄なし、感情の揺れもなし——ただ純粋に書かれた文字の力だけがある。
しかもかすかに、温かい色がする。
呪いでも何でもない。
この老人が心の底から望んで書いた文字だ。
「少し調べさせてください。
図書館に行ってきます」
「いつわかりますか」
と、カルが少し苛立ち気味に聞いて来た。。
「今日中に」
※※
私は、図書館へ向かいながら、ふと考えた。
歪みがない、ということは誰かを騙すためでも財産を隠すためでもない。
誰にも読めない文字で遺言状を書く——それは読める人間が限られているということだ。
この老人は誰かに読んでほしかった。
でも、その相手は家族じゃなかった。
心当たりが、一つある。
図書館でオーリンを見つけた。
書棚の奥の小机で古い冊子を照合していたところに近づくと、彼は顔を上げた。
「ドレンの旦那が亡くなったね」
と先に言われた。
「昨日の朝のことだったと聞いた」
「はい」
遺言状を差し出した。
「これを読んでもらえますか」
書類を受け取ったオーリンの手が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
見逃さなかった。
「……懐かしいね」
オーリンは静かに言った。
「これはドレンの爺さんが若い頃、自分で作った文字体系だ」
「知っていたんですか」
「知っているどころか」
書類を見つめながら言った。
「私に見せるために作った、と言っていたよ。
五十年以上前のことだ」
思わず「え」と言いそうになった。
「どういう経緯で」
オーリンはしばらく黙ってから、ゆっくり話してくれた。
ドレンの旦那がまだ三十代だった頃、古い言語の研究に熱中してこの図書館に入り浸っていた時期があったという。
オーリンとよく、文字の構造や言語の成り立ちについて話していた。
「面白い男だったよ。
研究者でも学者でもない、ただの石工の息子なのに、文字への興味が人一倍強くて。
ある日、自分で文字を作ってみたと言って見せに来た。
幼稚なものを想像していたが——見てみると、なかなか筋の通った体系でね」
オーリンは少し目を細めた。
「私が感心したら、嬉しそうにしていた。
それから二人で何度か改良を重ねて、最終的な形ができた。
私しか読めない文字だ、と言って笑っていたよ」
「その後は?」
「家業を継いで、家族を持って、忙しくなっていった。
その文字の話は出なくなった。
私も忘れかけていた」
もう一度、遺言状を見た。
「でも老人は、忘れていなかった」
「そうだね」
オーリンは静かに言った。
「九十を超えて、死を前にして——この文字を使うことを選んだ」
なんという事だろう。
私は、その意味を考えた。
この文字で書いたら家族には読めない。
法律家にも読めない。
遺言状として機能しないかもしれない。
それでもこの文字を選んだのは——読んでほしい相手が、一人だけいたからだ。
「読んでもらえますか。内容を教えてください」
オーリンはしばらく書類を見つめた。
いつもより長い沈黙だった。
「……読めるが」
老司書は言った。
「これは、家族に伝えていい内容かどうか、エイダさんが判断してくれるかい」
「読んでください。私が聞きます」
オーリンが読み上げた内容は、財産の分配じゃなかった。
老人が書いたのは、息子と娘それぞれへの言葉だった。
カルへ——頑固な父で苦労をかけた。
お前が継いでくれたことが誇りだった。
ベルタへ——遠くに嫁いでも毎年顔を見せてくれた。
それだけで十分だった。
そして最後の一行。
「二人が仲良くしてくれれば、それだけでいい。父より」
オーリンは書類を置いた。
財産の話は一切なかった。
法的な遺言状としてはほぼ無効だ。
でもこれを家族に伝えないわけにはいかない。
「なぜこの文字で書いたんだと思いますか」
私は、そう聞かざるを得ない。
オーリンはしばらく黙った。
「……わからないよ、本人でないから」
オーリンは、ゆっくり言った。
「でも——想像することはできる」
「聞かせてください」
「ドレンの爺さんは、家族の前では感情を表に出さない人間だった。
頑固で、口下手で。
家族への感謝や愛情を、面と向かって言えるような人ではなかった。
でも心の中では、ずっと思っていた——それは長く付き合えばわかる」
頷いた。
「普通の文字で書いたら、書けなかったのかもしれない」
オーリンは、独り言のようにつぶやいた。
「面と向かって言えないことは、紙に書いても言えない。
でも——誰も読めない文字なら、書けた。
誰かが解読してくれるまでの間は、自分だけの言葉でいられる。
そして私に読んでもらうことで、家族に届く。
私という一段階を挟むことで——書けた、ということではないかと思う」
面と向かっては言えない。
でも言いたかった。
だから、唯一読める人間に宛てて書いた。
その人間が家族に伝えてくれると信じて。
「九十年生きて、最後に言えたんですね」
「そうだね」オーリンは窓の外を見た。「遅すぎるということは、ないのかもしれない」
少し笑ってしまった。
「正式に写しを作ります。
オーリンさん、立会人になってもらえますか」
オーリンは頷いた。
カルとベルタに内容を伝えたのは、夕方のことだった。
老人が書いた内容を正確に伝えた。
誰も読めない文字で書かれた経緯も、オーリンだけが読めた理由も。
カルが最初に口を開いた。
「財産の話は、何も」
「何もありません」
カルは少し笑った。
泣いているのか笑っているのか、よくわからない顔だった。
「父らしい」
「そうね」
ベルタも、目を拭いながら言った。
「最後まで、あの人は。恥ずかしくて直接言えないから、誰にも読めない文字で書いて、他の人に読んでもらう」
「でも」
カルはゆっくり言った。
「ちゃんと、届いた」
二人は顔を見合わせた。
しばらく黙っていた。
でもその沈黙は、穏やかだった。
「ありがとうございました」
カルが何か想いがこもった声で言った。
「記録師殿、それから——オーリン爺さんも」
オーリンは何も言わずに小さく頷いた。その目が、普段より少し静かだった。
二人が帰ったあと、オーリンに聞いた。
「ドレンの旦那と、長い付き合いだったんですね」
「そうだね」
オーリンは書棚に向き直りながら言った。
「長い付き合いだった」
「五十年以上前から」
「それより長いかもしれない」
少し考えてから、聞いた。
「オーリンさんは、こんな手紙がいつか届くと思っていましたか?」
「……思っていたよ」
ゆっくり言った。
「あの爺さんは、言えないことをずっと抱えている人間だったからね。
いつか何かの形で出てくると、思っていた。
ただ—…九十まで待つとは思わなかった」
少し笑った。
「オーリンさんが読めなければ、永遠に届かなかったですね」
「そうなるね」
老司書は静かに、そっとうなづく。
「だから私は、ここにいたんだろうな」
私は、その言葉を、しばらく嚙み締めた。
この老人は何百年もここにいて、人が生まれ、老い、死んでいくのを見続けながら、ここにいる。
今日みたいな日のためにここにいたのかもしれない、とふと思った。
でもその言葉は、口には出さなかった。
「さて、今日の仕事は終わりかい?」
「はい」
「ならもう帰りなさい。今日はいい仕事をしたよ」
私は、図書館を出た。
外はもう夕暮れで、石畳がオレンジ色に染まっていた。鐘楼から夕方を告げる鐘の音が響いた。
九十年分の言葉が、今日やっと届いた。
ヴェルタの夕暮れは、今日も静かだった。
第六話終了。七話に続く。
いかがでしょうか。
次回は7話目です。
かなりお話の本質に迫る回になります。
ご期待ください。
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