第5話 届かない手紙
最初の投稿、プロローグ+5話分の投稿です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
楽しんでいただければ幸いです。
最初に来たのは、宿屋のヘルガさんだった。
六十がらみ、がっしりした体格、声が大きい。
この町の数少ない宿屋の女主人で、旅人の扱いには慣れている——そのヘルガさんが、珍しく困り顔で扉を叩いた。
「変な話なんですけど」
テーブルに封筒を三通、ドンと並べた。
宛名はどれも同じ——宿に泊まっている旅人の名前。
差出人なし、消印なし。
封蝋もない。
どこから来たのかさっぱりわからない。
「三日続けて、朝起きると宿の玄関に置いてあって。
郵便屋が持ってきたわけでもないし、誰かが届けたわけでもなくて」
「中身は?」
「最初の一通は宛先の人の了承得て確認しました。
宿屋の務めとして当然でしょう」
ヘルガさんは少し言い訳がましく言った。
「短い手紙で、一文だけ書いてあって。
二通目と三通目は本人に渡したんですが、
両方とも読まないで返してきて」
「本人というのは」
「一週間ほど前から泊まっている男性で。
コルトさんというんですが、どうも様子がおかしくて……」
三通の封筒に触れた。
強い歪みがある。
呼びかけるような感触——縋るというより、ただただ届こうとしている、みたいな。
怒りじゃない。悲しみとも少し違う。
言えなかった何かが、ずっとずっと届こうとしている色だ。
それと、もうひとつ。
生きている人間のものじゃない…。
これは、ややこしい話になりそうだ。
「その旅人さんに会わせてもらえますか」
あまり乗り気ではないヘルガさんを説得して、宿に赴いた。
宿の二階、コルトさんが泊っている部屋にたどり着く。
彼は四十代、中背の男性。
荷物が少ない。
旅慣れた感じだ。
ヘルガさんに聞いたところによると、昼は町をぶらついたり図書館で時間を潰したりしているらしい。
急ぎの用件があるようには見えない。
部屋に入っても、コルトさんは窓の外を向いたままだった。
振り返りもしない。
「また手紙の件ですか」
本当に、面倒くさそうにブツブツ言っている。
「記録師のエイダといいます。宿の女主人から相談を受けて」
「読む必要がない手紙の話なら、聞くことはありません」
机の上に小さな酒瓶が一本、あった。
封は切られていないが、これから飲もうとする感じがひしひしと伝わってくる。
「一通目は読んだんですよね?」
コルトさんの肩が、わずかに動いた。それから振り返った。目が、かすかに険しい。
「読みました。
だから二通目からは受け取らなかった」
「誰から来た手紙か、わかってるということですか」
長い沈黙。
「……兄です。二年前に死にました」
ああ、そういうことか。
差出人の名前がない理由がわかった。
「生前に書いた手紙が、今も届いてるんですか」
「そうらしい」
コルトさんは短く言った。
「最初に届いたのは兄が死んで半年後。
同じ文面、同じ封筒でした。
それからちょこちょこ——今まで四つの町で受け取っています。
ここで五回目」
「五回も」
コルトさんは、やれやれと言わんばかりにため息をついた。
「場所が変わっても届く。仕組みはわかりません。
兄は変わったことが好きな男だったので、何か細工してたんでしょう」
コルトさんは投げやりな口調で言った。
「正直もうやめてほしいんですが、死んだ人間には言えないが」
「なぜ読まないんですか。一通目は読んだのに」
「読んで、わかりました。二通目以降は読まなくていいと」
「内容が気に入らなかった?」
「そういうことです」
少し間を置いて、深いため息をついている。
この人は怒っているわけじゃない。
ただ、すごく頑なになっている。
なんで?って聞いたら教えてくれるか、どうか分からない。
「お兄さんと、仲が悪かったですか」
そう聞くと、また沈黙した。
コルトさんは窓の外に視線を戻した。
「……仲が悪かったとは言いません」
しばらくして、ゆっくり言った。
「ただ、最後まで、うまくいかなかった。
何度も喧嘩して、何度も仲直りして、また喧嘩して——最後の喧嘩だけ、仲直りできなかった」
「最後の喧嘩はいつのことですか」
「お兄さんが死ぬ三ヶ月前。
それから一度も会わなかった。
会いに行けばよかったのに、意地を張って行かなかった」
短く息を吐いた。
「それが今でも……」
そこで言葉が止まった。
封筒を手に取って、もう一度歪みを確かめた。
未練だけど、謝罪じゃない。
怒りでもない。
もっとシンプルな——ただ、言えなかった何かだ。
何年も、何度も、届けようとしている。
「中身を確認してもいいですか。
文字の状態を確かめる必要があるので」
私が頼むと、再びため息まじりに答えた。
「……好きにしてください」
私は、開封されていない二通目を開けた。
短い手紙だった。ヘルガさんが言った通り、数行しかない。
文字に触れた。
歪みは、ない。
それが一番びっくりした。
これだけの感情がこもった手紙なのに、文字そのものにまったく歪みがない。
嘘なし、改竄なし、感情の揺れなし——書いた人間が心の底からそう思っていたことが、純粋にそのまま書かれている。
文章を読んだ。
謝罪の言葉はなかった。
仲直りしようとか、許してほしいとか、そういうのもなかった。
ただ、弟のことを思って書いた——それだけの手紙だった。
この手紙が届き続けているのは、まだ受け取ってもらえていないから。
受け取る、っていうのは封を開けることじゃない。
「読んでもらえますか」
コルトさんに手紙を向けた。
コルトさんは振り返り、手紙を見た。それから私を見た。
「……あなたが、読んでください」
私は、ちょっと考えた。
これは記録師の仕事じゃない。
誰かの手紙を代読するのは。
でも今ここで断る理由も、見つからなかった。
代読するしかないか…
「お兄さんが書いていたのは——『お前のことを、ずっと自慢に思っていた。
お前が元気でいることだけが、俺の望みだった』ということだけみたいですね。」
部屋が静かになった。
コルトさんは窓の外を向いた。
肩が、わずかに震えた。
手紙をテーブルに置いた。
何も言わなかった。
言うべきことは、もう何もない。
しばらく沈黙が続いた。
「……謝罪じゃないんですね」
「はい」
「怒ってもいない」
「文字に歪みがない。
書いた人が、心からそう思っていたということです」
コルトさんはしばらく黙っていた。
「兄は——変な男でした」
ゆっくり語り始めた。
「喧嘩しても謝るのが下手で。
仲直りの仕方を知らない人間で。
でも根に持つこともなくて。
怒ったと思ったら翌日には忘れていて」
そう言って少し笑った。
笑っているのか泣いているのか、わからない顔だった。
「最後の喧嘩も、兄はもう忘れていたんじゃないかって——そう思おうとして、でも会いに行けなかった」
「なぜ?」
「こっちはまだ怒っていたから」
コルトさんは言った。
「それだけです。意地を張っていた。
三ヶ月後に兄が死んで、それで終わりました」
沈黙に包まれた。
コルトさんは立ち上がり、机の上の酒瓶を手に取った。
封を切って、一口飲んだ。それから私を見た。
「……俺も、仲直りしたかった。
ずっと」
コルトさんも私も、何も言わなかった。
言葉は要らないと思った。
「この手紙、持っていっていいですか」
3通の手紙を持って、コルトさんは言った。
「今度こそ、受け取ります」
頷いた。
「もうたぶん届かなくなると思いますよ。受け取ってもらえれば」
私がそう言うと、コルトさんは短く頷いた。
翌朝、仕事部屋で朝の作業をしていたら、ヘルガさんが顔を出した。
「コルトさんが今朝早く、チェックアウトしていきました」
「そうですか」
「荷物をまとめて夜明け前に。
でも部屋に置き手紙が残っていて。
私宛に書いてあって…
私には読めない異国の言葉で書いてある…」
手紙を受け取った。
短い文章だった。
異国語なのは、照れ隠しか、私へのメッセージだろうか?
手紙に触れる。歪みがない。
素直な感謝の字だ。
「『三日間世話になった。騒がせてすまなかった。手紙は持っていく。ありがとう』だそうです」
「そうかい」ヘルガさんは少し黙ってから、それだけ言った。
それ以上は聞かなかった。
ヘルガさんが帰ったあと、窓の外を見た。
今日は手紙が届いていない、とヘルガさんは言っていた。
受け取ってもらえた手紙は、もう送付されない。
それがこの世界の文字の魔法の、ちょっと不思議な性質だった。
《届いた》ということだ。
仕事部屋に戻って、今日の清書を続ける。
窓の外で、霧苔の靄がゆっくりと流れていた。
五話終了。六話に続く。
いかがでしょうか?
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