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第4話 消えていく日記

さて第四話です。

継続して読んでいただいていれば、相当嬉しく思います。


なにか残れば幸いです。

引き続き、よろしくお願いいたします。

 来客を知らせるベルの音で、リーナだ、とわかった。


 染め物屋を営む二十代の女性で、一度土地の契約書を書いたことがある。

 快活で、笑顔が多い印象だった——が、今日の彼女は別人みたいだった。


 顔色が悪い。

 目の下に影がある。

 目が、乾いた赤さをしていた。

 あの快活さが欠片もなく、ただ何かに疲れ果てた顔で椅子に座った。


「おかしなことが起きていて」


 テーブルに、小ぶりな手帳を置いた。


「日記の文字が、毎朝少しずつ消えているんです」


 受け取った。革表紙で、新しくない。

 何度も手で触れてきた跡があって、角が少し擦り切れている。

 大切にされてきたものだとわかる。


 ページを開くと、確かに文字の消えた跡があった。

 墨の染みだけが残って、字の形が失われている。

 一行まるごと消えているところもあれば、一文字だけぽっかり抜けているところもある。

 誰かが少しずつインク消しで拭き取っていったみたいに。


 手帳に触れた。


 歪みがある——複雑で、揺れるような感触だ。

 悲しみ。

 でも怒りや呪いじゃない。

 もっと繊細な、内側から揺れているような感触。


 何かを忘れたいのか。

 あるいは——忘れてしまいそうで怖いのか。

 その二つが混ざり合って、文字を不安定にしている。

 

 もちろん記録用に使う霧苔インクではなく、普通のインクだけど、消え方が不自然だと思う。


「いつ頃から始まりましたか」

 リーナに尋ねてみた。


「二週間ほど前からです。

 最初は一、二文字で気のせいかと思っていたんですが——最近は毎朝、前の日より増えていて」


「何を書いた日記ですか」


 リーナは少し黙った。

 目が泳いでいる。言おうか言うまいか…

 言いにくそうに彼女はぼそぼそと話し始めた。


「……日々のことを。思ったことを」


 答えとしては正しい。

 でも何かを避けている。

 急かすことはしなかった。


「紙が傷んだわけではないですね」

 消えた箇所をもう一度確かめながら言った。

「外からかけられたものでもない。

 これは——あなたの中から出ているものだと思います」


はっと、表を上げてリーナは言った。

「私が、やっているということですか」


「無意識に、何かが作用している」

 私は慎重に付け加えた。

「もう少し調べさせてもらえますか。

 手帳を一晩、預かってもいいですか」


 リーナは少し迷う様子を見せてから、頷いた。


「……大切なものなので」


「丁寧に扱いますので、安心してください」

 リーナは、何も言わず手帳を預けて帰っていった。

 

   ※※


 その夜、手帳をじっくりと読んだ。


 最初のページから読んでいくと、日記は半年ほど前から書き始めていた。


 最初の数ページは日常の記録。

 染め物の仕事、天気、買い物。

 文体は明るく、几帳面な字だ。


 ところが、ある日を境に雰囲気が変わった。


 文字が少し乱れている。

 書く力が入りすぎているのか、線が太くなった。

 内容も変わった——誰かへの呼びかけになっていた。


「今日は風が強かった。

 あなたは風が好きだったかな。

 きっと好きだったと思う」


「今日、町で赤ちゃんを見た。

 あなたくらいの大きさだった。

 泣けなかった」


「あなたの名前を呼んだら、

 返事が聞こえた気がした。

 聞こえなかったけれど、聞こえた気がした」


 ページをめくる手が止まった。


 誰かへの呼びかけ。

 返事が来ない誰かへの。


 もう少し読み進めると、一行だけはっきり書かれた文があった。


「ロッタ、ごめんね。

 お母さんはまだ泣いています」


 手帳を閉じた。


 涙が溢れる。

 これは、私には読む権利がないものだ…

 でも、記録師として向かい合う必要はあるだろう。


 翌朝、リーナが手帳を受け取りに来た。


「読みました」返しながら、ゆっくり言った。


 リーナの顔が、かすかに動いた。


「ロッタというのは——」


 リーナは少し間を置いてから、静かに言った。


「娘です。

 生まれてすぐに、亡くなりました。

 去年の冬のことです」


 何も言わなかった。


「名前だけはつけていました。

 生まれる前から、ずっと考えていた名前で。

 ロッタ、という名前を」

 リーナは手帳を両手で持ったまま、テーブルを見ていた。

 

「あの子と過ごした時間は、ほんの少しだった。

 顔を見て、抱いて——それだけでした。

 でもそれだけで、もう十分に、あの子は私の娘だったから」


 リーナの声に耳を傾けた。

 急かさなかった。

 遮らなかった。


「出産して、退院してから、すぐ亡くなりました。

 何もできなくて。

 仕事も、家のことも。

 ご飯を食べることさえ——夫がいなかったら、たぶん私はもっとひどいことになっていたと思います」


「今も、一緒に暮らしているんですか」


「はい。夫は何も言わないんです。

 泣いていても、何も言わずに隣にいてくれる。

 それが——どれほど助かったか」


 少し黙った。


「この日記を書き始めたのは、いつ頃ですか」


「ロッタが亡くなって、三ヶ月ほど経ってからです。

 夫に勧められて。書くと、少し楽になると聞いたから」


「書いてみて、どうでしたか」


「最初は、書けなかった。

 何を書いても、あの子に届かない気がして。

 でも書いているうちに——あの子に話しかけているような気持ちになれて。

 それから毎日書くようになりました」


 リーナは手帳を見た。


「でも文字が消えていく。

 書いても書いても、朝起きると減っている。

 まるで——あの子への言葉が、どこかに消えてしまうみたいで」


 声が、細くなった。


「怖いんです。

 消えたら、忘れてしまう気がして。

 あの子の顔を、声を、重さを——忘れてしまったら、あの子はどこにもいなくなってしまうような気がして」


 この感触だ、とわかった。

 手帳に感じた歪み——忘れたいのではなく、忘れてしまいそうで怖い。

 その恐怖が文字を不安定にしていた。

 書けば書くほど、消えることへの恐怖も大きくなる。

 矛盾した感情が、文字を揺らし続けていた。


「一つ聞いていいですか?」

 リーナの気持ちを考えつつ、おそるおそる聞いた。

 「消えた文字——覚えていますか。何を書いたか?」


 リーナは少し考えた。


「……覚えています。全部」


「全部?」


「はい。

 どのページに何を書いたか、ほとんど」


 頷いた。


「では、文字は消えても、あなたの中には残っているんです」


 リーナがこちらを見た。


「文字というのは、記録するためにあるんです。

 書いたことを忘れないために、形にするためにあるんです。

 でも——記録しなくても覚えていることは、記録よりずっと深いところにあると思います。

 ロッタちゃんのことは、紙の上に書かれているより前から、ここにあるんですよ」


 そう言ってリーナ胸を指さした。


「消えていくのは——ロッタへの言葉が、あなたの外に出て、どこかへ届こうとしているのかもしれない…」


 リーナはしばらく黙っていた。


「届く、んですか。あの子に」


「わかりません」

 正直に答えた。

 

「でも——文字の感触って、書いた人間の気持ちが残るんです。

 あなたがロッタに向けて書いた言葉は、その気持ちごと、ちゃんとそこにある。

 消えたように見えても」


 しばらく沈黙が落ちた。


 窓の外で霧が動いていた。朝の光が、石畳にゆっくりと届き始めていた。


「書き続けていいですか」

 リーナはやがて言った。

 

「日記を。また消えても」


「いいと思います。

 消えたら、また書けばいい。

 それがロッタちゃんとあなたの時間だから」


 リーナは手帳を胸に抱えすすり泣いていた。


 目が少し、潤んでいる。でも今度は乾いた赤さじゃなかった。

 別の種類の、温かい色の目だった。


「ありがとうございます…」


 そう言い残してリーナは立ち去って行った。


 扉が閉まったあと、しばらくテーブルを見ていた。


 私の仕事は、書かれた文字を扱うことだ。

 でも今日やったのは、消えていく文字の話だった。

 記録師の技術なんてほとんど関係ない。

 ただ感じ取って、話を聞いた、それだけだ。


 それでも——来てもらってよかった、という気がした。

 ちゃんと話もできた。


 ペンを取り、今日の仕事、清書の続きを始める。


今日もヴェルタの町の平穏な一日が過ぎていく。


四話終了。五話に続く。


いかがでしょうか?

4話まで来ました。誤字脱字のご指摘もよろしくお願いいたします。

続きの読みたい方は、コメントよろしくお願いいたします。

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よろしくお願いいたします。

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