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第3話 嘘をついた記録

続いて3話です。

読んでいただき、ありがとうございます。


よろしくお願いいたします。

 依頼人が扉を叩いたのは、雨の降り始めた午後だった。


 入ってきたのは三十代半ばの男で、濡れた外套を申し訳なさそうに抱えている。

 名をヴァルトといった。

 石工の棟梁で、この町では顔の知れた人物だ。

 私とも何度か仕事で顔を合わせている。

 土地の売買契約の立会いを頼まれたことがあったし、取引の契約書のこともあった。

 真面目で、几帳面な印象の男だ。


 ただ今日は様子が違っていた。

 外套の濡れ具合からして、雨が降り始める前から外を歩いていたらしい。

 雨宿りもせずに来た、ということだ。


「記録師殿に、古い書類を見ていただきたくて」


 テーブルに置かれたのは、折り目の深い羊皮紙だった。

 土地の権利書で、五十年以上前に書かれたものらしい。

 インクが褪せ、端が少し欠けている。

 大切に保管されてきたことはわかるが、何度も出し入れしたのだろう、表面に微かな擦り跡がある。


 書類を手に取った。


 すぐに感じた。


 歪みがある——呪いでも改竄でもない。

 もっと奇妙な感触だ。

 書いた人間が、何かを「信じているふり」をして書いたような、微妙なずれ。

 嘘をついた文書の歪みとも少し違う。

 悪意がない。

 むしろ、深い愛情の色がする。


「この土地をめぐって、隣家と揉めているんです」

 ヴァルトは言った。

「祖父が書いた権利書なんですが、相手方は偽物だと言って聞かない。

 本物かどうか、確かめてもらえますか?」


「隣家というのは?」

「ガルト家です。

 隣村の——家、もともとはヴェルタにいた一家です。

 今は隣村に移っていますが」


 ヴァルトは少し言葉を選ぶようにして、続けた。


「ガルト家の当主が先月亡くなりまして。

 その息子が家の財産を整理していて、この土地が本来ガルト家のものだと主張してきたんです。

 うちの祖父が不正に取得したと言って」


「いつ頃の話ですか、その土地の取得は」


「五十二年前です。

 祖父が三十代の頃のことで、私は生まれていません」


 もう一度書類を見た。

 日付は確かに五十二年前だ。


「改竄はされていません」

 書類を見ながら言った。

「ただ——少し調べさせてください。

 明日、もう一度来ていただけますか」


 ヴァルトは不思議そうな顔をしたが、頷いた。


「……祖父は、もう十年前に亡くなっています。

 当時のことを聞ける人間が、もうほとんどいないもので」


 その言葉が、引っかかった。

(五十年以上前か…)


その頃を知っているだろう人を一人、私は知っていた。


   ※※


 その日の夕方、図書館に向かった。


 オーリンは書棚の奥の小机で、何かの写本を照合していた。

 近づくと、顔を上げた。


「ヴァルトの家の土地のことを調べたいんですが」

 権利書を差し出した。

「五十年以上前の記録で、ガルト家という名前が出てきます」


 オーリンは権利書を受け取り、しばらく眺めた。


「ガルト家か」

 老司書は静かに言った。

「懐かしい名前だ」


「知っているんですか」


「長くこの町にいるからね」

 オーリンは立ち上がった。

「少し待ちなさい」


 老司書は書棚の奥へ消えた。

 梯子を上る音がして、しばらく沈黙が続いた。

 埃をかぶっただろう?台帳が何冊か落ちてくる音がした。


 十分ほどして、オーリンは古びた台帳を三冊抱えて戻ってきた。


「五十年以上前の土地台帳だよ」

 老司書は机の上に広げた。

 

「ガルト家の土地がどうなったか、見てみよう」


 二人で台帳を調べた。


 問題の土地は、もともとガルト家の名義になっていた。

 それが五十二年前に、ヴァルトの祖父の名義に変わっている。

 変更の記録には「売買契約により」と書いてあった。


「正式な売買ですね」言った。


「書類の上はそうだね」

 オーリンは少し間を置いた。

「ただ——ここを見てごらん」


 老司書が指さしたのは、売買の半年前の記録だった。


 ガルト家の欄に、小さな書き込みがある。

 「当主急逝、家業整理のため資産売却」とある。


「ガルト家の当主が突然亡くなっていた?」

私は、思わずオーリンに尋ねた。



「そうだ。五十二年前の冬のことだ。

 当時の当主は四十代で、急な病だったと聞いている。

 残されたのは若い妻と、まだ幼い子供たちだった」


 権利書に戻った。売買の日付は、当主が亡くなった翌春だ。


「家業が立ち行かなくなって、土地を売ったということですか」


「そういうことだろうね」

 オーリンは続けた。

「当時のヴェルタでは、主を失った家が土地を手放すのは珍しくなかった。

 借金があれば、なおさら」


「ガルト家には借金があったんですか」


「台帳だけではわからないね」

 オーリンはもう一冊の台帳を開いた。

「ただ——ヴェルタを離れたのは翌年の秋だ。

 土地を売ってから一年も経たないうちに。

 急ぎの事情があったんだろう」


 しばらく考えた。

 主を失い、土地を売り、一年も経たずに町を去った家。

 残されたのは若い妻と幼い子供たちだ。


「ヴァルトの祖父は、その土地を買った」


「正式な価格で買ったのかどうかは、記録だけではわからない」

 老司書は静かに言った。

「ただ——ヴァルトの祖父は当時、ヴェルタでも腕の知れた石工だった。

 裕福ではなかったが、信頼できる人物だったと聞いている」


「オーリンさんは、ヴァルトの祖父を知っていたんですか」


 老司書は少し間を置いた。


「顔は知っていたよ。

 この町で長く仕事をした人間だからね。

 寡黙で、真面目な男だった。

 自分の仕事に誇りを持っていた」

 老司書はゆっくり言った。


「そういう人間が、後ろめたいことをするとは思えない。

 ただ——心に引っかかるものを抱えたまま生きることは、あったかもしれない」


 しばらく台帳を見つめた。


 権利書の歪みを思い返した。

 悪意がない。

 深い愛情の色——それはどういう意味か。


 翌朝、ヴァルトが来る前に、もう一度権利書に触れた。


 今度は時間をかけて、一字一字の感触を確かめた。


 歪みの中に、ある感情の輪郭が浮かんできた。


 書いた人間——ヴァルトの祖父は、この土地の本当の経緯を知っていた。

 ガルト家が困窮して手放さざるを得なかった土地を、正式な手続きを踏んで取得した。

 価格も不当ではなかった。

 法的には何も問題がない。


 でも祖父の心の中に、ずっと引っかかっていたものがあった。


 ガルト家は、困っていたから売った。

 望んで売ったわけではなかった。

 主を失い、幼い子供たちを抱えた若い妻が、泣く泣く手放した土地だ。

 それを自分が買った。

 正当な取引だ。

 でも「本当はあの家の土地だった」という思いは、消えなかった。


 だから書類を書くとき、「自分の土地だ」と心から思えなかった。

 信じているふりをして書いた。

 家族を守るため、その土地で生計を立てるため——でも心のどこかでは、ずっとガルト家のことを気にしていた。


 その感情が、五十年経った今も文字に残っていた。


  ※※


 ヴァルトが来た。


「書類は本物です」

 私はそう伝えた。

「改竄も偽造もない。あなたの祖父が正式な手続きを経て取得した土地です」


「では——」


「ただ」

少し間を置いた。

「あなたの祖父は、その土地のことをずっと気にしていたと思います」


 ヴァルトは目を瞬かせた。


「どういう意味ですか」


「ガルト家の事情を、あなたはどこまで知っていますか」


「詳しくは——当主が突然亡くなって、家が立ち行かなくなったとは聞いています。

 それで土地を売ったと」


「当時、ガルト家の奥さんと子供たちはどうなったか、知っていますか」


「隣村に移ったと聞いています。奥さんは——数年後に再婚したと。

 子供たちは成人して、今のガルト家の当主はその息子にあたります」


 ヴァルトの顔を見た。


「あなたの祖父は、その土地を正当に買いました。

 でも書類にはっきりと残っているのは、それだけじゃない。

 彼がその取引を、心から『自分のもの』として思えなかったという残滓も残っています」


 ヴァルトは黙った。


「法的な話をすれば、あなたの家に問題はない。

 ガルト家の息子の主張を退けることができます」

 私は続けた。

「でも——一つだけ聞かせてください。

 あなたはガルト家と、どんな付き合いがありますか」


「古い付き合いです」

 ヴァルトは少し考えてから言った。

「子供の頃から顔は知っています。

 元々、隣に住んでいたこともあって、彼らが隣村に移り住んでからも付き合いがありました。

 ガルト家の息子と私は、同い年で—喧嘩もしましたが、悪い仲じゃなかった。

 最近は疎遠になっていましたが」


「今回のことで、もっと疎遠になりそうですね。

 残念ながら。」


「そうなりますね」

ヴァルトは短く言った。

「突然土地を返せと言ってきて。正直、腹も立ちました」


 ヴァルトは、しばらく黙った。


「一つだけ提案があります。

 法的な話ではなく、人としての話として、ガルト家の息子と一度話してみてもらえますか。

 祖父の代に何があったか——お互いの祖父が、何を考えていたか」

 ヴァルトは、何かを思い詰めたように私を見た。

 

「それで何が変わるんですか」


「変わらないかもしれません」

 正直に言った。

「でもあなたの祖父は、ガルト家のことをずっと気にしていた。

 その気持ちに、どこかで決着をつけてあげることが——あなたにできることかもしれない」


 ヴァルトはしばらく黙って、テーブルの上の権利書を見ていた。


「……祖父が気にしていたというのは、どうしてわかるんですか」


「文字に残っています」

 静かに言った。

「記録師の仕事というのは、そういうものです」


 ヴァルトは権利書を手に取り、しばらく眺めた。

 五十年以上前に、今は亡き祖父が書いた文字を。


「……祖父は、無口な人でした」

 ヴァルトはゆっくり言った。

「仕事のことしか話さない人で。

 子供の頃、なぜ隣村のガルト家とは話をしないのかと聞いたことがあります。

 先程言った通り、私はガルト家の息子とよく遊んでいましたから…

 そうしたら黙ってしまい、話は終わりでした」


 そう言うとヴァルトは黙ってしまったが、ぼそっと付け加えた。


「今になって思えば——気にしていたんですね、やっぱり」


「そう思います」


 ヴァルトは権利書をテーブルに戻した。


「わかりました。

 一度、話してみます。

 法律の話ではなく、人間同士の話として」


 彼が出ていったあと、窓の外の雨を眺めた。


 雨はまだ続いていた。石畳を叩く音が、部屋に静かに響いている。


 記録師の仕事は、書かれた事実を正確に伝えることだ。

 でも今日伝えたのは、事実の裏にあった感情だった。

 それが正しかったかどうか、私にはわからなかった。


 ただ、あの権利書の歪みが、少し和らいだ気がした。

 五十年間、文字の中で静かに揺れ続けていたものが、今日初めて誰かに触れてもらえた——そんな気がした。

 

   ※※

   

 一週間後、ヴァルトが短い報告に来た。


「ガルト家の息子と、話しました」


「どうでしたか」


「最初は険悪な雰囲気でした」

 ヴァルトは少し苦笑いしながら続けた。

「でも祖父の代のことを話すうちに——向こうも知らなかったことが多くて。

 当時の当主が急に亡くなって、母親と子供たちがどれだけ苦労したか。

 ガルト家の息子も、親から断片的にしか聞いていなかった」


「土地の話は」


「取り下げてくれました」

 ヴァルトは言った。

「こちらに非はないとわかったようで。

 それに——祖父が気にしていたということを話したら、少し表情が変わって」


 私はヴァルトを見た。心なしかすっきりした表情だ。。


「一つ頼まれたことがあります」

 ヴァルトは少し言いにくそうに続けた。

「ガルト家の息子が、その土地の隅に小さな石を置かせてほしいと。

 先祖の縁の土地だから、記念に——と」


「あなたは?」


「構わないと言いました」

ヴァルトは静かに言った。

「むしろ、そうしてもらえた方がいい気がして」


 窓の外を見た。雨はとっくに上がって、石畳が光を反射している。


 記録には残らないことが、今日また一つ解決した。

 それでもいい、と思っている。。


 ヴェルタの午後は、穏やかに晴れていた。


三話終了。四話に続く。


いかがでしょうか?

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続いて4話!!

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