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3/21

第2話 読めなくなった看板

続いて2話です。

いかがでしょうか?


ドキドキがとまりません。(笑)

 その朝、買い物に出て、最初の角で足を止めた。


 パン屋の看板が、読めない。

 

「あれ??」


 文字の形は見える。墨で書かれた字が、板の上にちゃんとある。

 なのに意味が頭に入ってこない。

 まるで知らない言語で書かれているように、形だけが目の前に浮かんでいる。


 おかしい、と思って隣の乾物屋の看板を見た。

 同じだ!!

 文字の形はあるのに、読めない。

 向かいの仕立て屋も、角の薬草屋も、どれも同じだった。


 立ったまま、指先で空気を探るように動かした。

(職業病だなぁ)


 歪みがある。

 呪いの感触とは違う。呪いはもっと鋭く、外から押し込まれたような不自然さがある。

 これは——内側から文字が閉じられているような感覚だ。

 しかも悪意がない。

 にじみ出るような、古くて深い悲しみの色をしている。


 通りを歩く住民たちも、看板を見上げては首を傾げていた。

 子供が「なんで読めないの」と母親の袖を引いている。

 パン屋のヨルクが店の前に出てきて、自分の看板を困り顔で眺めていた。

 向こうから私に気づいて「記録師さん、これどういうことだ」と声をかけてくる。


「調べてみます」とだけ言って、踵を返した。


 まずオーリンに話を聞く。あの老人が何も知らないとは思えなかった。


 図書館はいつもの静けさだった。


 朝の光が高い窓から差し込み、埃が空中にゆっくりと漂っている。

 受付を抜けて奥に進むと、オーリンは地図棚の近くの椅子に腰かけて、薄い冊子を読んでいた。

 珍しい。たいていは棚の間か梯子の上にいる。


「座っているんですね」


「たまにはね」

 オーリンは冊子から目を上げた。

 目が、いつもより少し静かだった。

「町が騒がしいね」


「看板が読めなくなっています」


「そうかい」


「知っていましたか」


「気づいてはいた」オーリンは冊子を閉じた。

「朝から空気に歪が出ていたからね」


(へぇ~、オーリンは空気で感じてたんだ・・・)

 そう思いながら、椅子を引いて向かいに座った。

 

 いつもと違う静けさ。

 オーリンが何かを待っているような——あるいは、何かを測っているような空気がある。


「心当たりはありますか」


 オーリンはしばらく黙った。

 窓の外の石畳を眺めるような目をしてから、ゆっくり言った。


「ツヅリさんのことは知っているかい」


「名前は聞いたことがあります。文字占い師だったと思いますが」


「そう。もう店は畳んでいるが、長くこの町にいる人だ」

 オーリンは少し間を置いた。

「ご主人が亡くなって、もうすぐ一年になる。

 あ、そうだった

「一周忌が近いという事ですか?」


「ああ。ご主人は看板職人だった。

 この町の看板のほとんどは、彼が書いたものだ」


 窓の外を見た。

 通りに並ぶ看板——読めなくなったあの文字たちが、全部同じ人の筆跡だとしたら。

 それがどういうことか、少し時間をかけて考えた。

 毎朝目に入る。毎日通るたびに目に入る。

 しかも一年間ずっと。


「ツヅリさんは今、どこに」

「水路沿いの、石橋を渡ったところの家だよ」オーリンは言った。「ただ——」

「ただ?」

「人に会いたがる時期ではないかもしれない」


 少し考えた。

 それはそうだろう、と思った。

 一周忌が近い人のところに押しかけるのは、どう考えても歓迎される話ではない。

 でも町の看板が読めないままでいるわけにもいかない。

 何より——あの歪みの感触が、頭から離れなかった。

 悲しみが文字を閉じるほど積み重なっている。

 放っておいていい話ではない気がした。


「わかっています」立ち上がった。

「それでも行きます」


 オーリンは何も言わなかった。

 ただ穏やかな目で見送った。

 その目が「気をつけて」と言っているのか「うまくやりなさい」と言っているのか、私にはわからなかった。

 いつもそうだ、この老人は。


 石橋を渡ると、通りの雰囲気が少し変わった。


 水路沿いの家々は古く、石壁に苔が生えている。

 人通りが少なく、静かだ。

 水の流れる音だけが、ゆっくりと響いている。

 教えてもらった場所はすぐにわかった。

 他の家より少し小さい、木の扉の家。扉の横に、看板を掛けるための金具だけが残っていた。

 看板そのものはない。

 外されたのか、それとも最初からなかったのか。


 ノックした。


 返事がなかった。


 もう一度、少し強くノックした。


「……どなたですか」


 低い、落ち着いた声だった。

 警戒しているというより、疲れている声だった。


「エイダといいます。記録師をしています。

 少しお話を聞かせてもらえますか」


「記録師には用はありません」


「看板の件でうかがいました」


 沈黙が落ちた。長い沈黙だった。


 扉の前で待った。急かさなかった。

 扉越しに、向こうの気配を感じようとした。

 動いている。

 迷っている。

 出ていけと言いたいのか、それとも開けようとしているのか、判断できない。


「看板が、どうかしましたか」


 とぼけているのではない、と感じた。本当に気づいていないのかもしれない。

 あるいは——気づいていても、認めたくないのか。


「今朝から、町中の看板が読めなくなっています。

 住民のみなさんが困っています」


「……それと私に、何の関係が」

仕方が無いけど、はっきり伝える。


「あなたが原因だと思っています」


 また沈黙。

 今度はもっと長かった。


「人を侮辱するのもたいがいにしてください」


 声に、かすかな怒りが混じった。

 私はそれを聞いて、少し安心した。

 怒れるということは、まだ扉の向こうにちゃんといる、ということだから。


「侮辱ではありません」

 扉に向かって真っ直ぐ言った。

「文字の歪みを感知するのが私の仕事です。

 今朝感じた歪みは、呪いじゃない。

 悪意もない。

 ただ深い——悲しみの色をしていました」


 扉の向こうで、何かが動く気配がした。


「一周忌が近いんですよね」


 返事がなかった。でも扉が、わずかに揺れた気がした。


「ご主人が書いた字が、町中にある。毎日目に入る。

 この時期は特に——」


「やめてください」


 声が、初めて揺れた。


 口を閉じた。

 言いすぎたかもしれない。

 でも引き下がる気にもなれなかった。

 あの歪みの感触——長い年月をかけて積み重なった、後悔と悲しみの色。

 それを感じてしまったら、もう他人事にはできない。


 しばらく扉の前に立っていた。

 石畳に水路の音が響いている。

 遠くで子供が何か叫んでいる声がした。

 風が吹いて、どこかの木の葉が揺れた。


 やがて、鍵をはずす音がした。


 扉が、細く開いた。


 ツヅリは小柄な老婆だった。


 白髪を後ろでまとめ、濃い色の上着を着ている。

 背筋がまっすぐで、顔の線が凛としている。

 目が赤い。

 泣いていたのか、それとも眠れていないのか、判断がつかなかった。

 ただその目には確かな意志がある。

 弱音を見せない人間の目だ、と思った。

 こういう人は、同情されることを何より嫌う。


「上がれとは言いません」

 ツヅリは言った。

 「ここで聞きます」


「わかりました」


 二人は扉を挟んで向き合った。

 細く開いた隙間から、小さな部屋が見えた。

 机の上に何かの紙が広げてある。

 壁には古い棚があって、文字の書かれた札のようなものが並んでいる。

 文字占い師の仕事道具だろうか。

 今は使われていない、静かな空気がある。

 ツヅリは私を見上げて小さく呟く。

「私が、やったというんですか」


「無意識だと思います。

 あなたが文字の力を扱う仕事をしていたから——その悲しみが、文字に作用した」


「……そんなことが、できるはずがない。

 もう何年も、そういう仕事はしていない」


「文字の力は、意識して使うものだけじゃないと思います」

 静かに言った。

「あなたが心の底で思ったことが、そのまま出てしまった」


 ツヅリは黙っている。

 でも、その沈黙を急かさなかった。

 この人は言葉を選ぶ人だと感じた。

 簡単に口を開かない。

 でも開いたときはちゃんと本当のことを言う。

 そういう人の沈黙には、待つ価値がある。


「……いっそ誰にも読めなければいい、と思ったのは本当です」

 ツヅリはゆっくり言った。

「あの人の字が、今の時期は——見るたびに、息が詰まる。

 一年経てば少し楽になると言われた。

 でも全然そんなことはなかった。

 むしろ近づくにつれて、重くなっていく一方で」


 私は、何も言わなかった。

 いや、言えなかった。


「たぶん私が原因でしょう。

 悪いことをしたのかもしれません。

 町の皆さんに」


「悪意があってやったことじゃないでしょう…」


「それでも、結果は同じです」

 ツヅリは顔を上げた。

 疲れた目に、かすかな決意が混じっている。

 

「どうすれば、戻りますか」


 少し考えた。


「文字を消すことはできません。ご主人が書いたものは、ここに残り続ける」


「わかっています」

 ツヅリは頷いた。


「でも——一つ提案があります」言った。

「一緒に歩きませんか。

 町を。

 ご主人の字が残っている看板を、一つ一つ確かめながら」


 ツヅリは黙って私を見た。

 その目が、わずかに揺れた。


「それで、戻るんですか」


「たぶん」


「たぶん、というのは」


「確かなことは言えません」

 正直に答えた。

「でも——閉じてしまったものは、あなた自身が開かないと戻らないと思う。

 魔法の問題じゃなくて、あなたの心の問題だから」


 長い沈黙だった。


 ツヅリは一度、細く息を吐いた。

 その息の中に、何年分かのものが混じっているような気がした。


「少し待ってください。上着を取ってきます」


 上着を羽織ったツヅリと私は、二人で町を歩いた。


 ツヅリは最初、私の半歩後ろを歩いていた。

 看板が見えるたびに、足が少し遅くなる。

 それに合わせて歩いた。

 急かさなかった。

 この人のペースで歩く、それだけだと思った。


 最初の看板は、パン屋のものだった。


 ツヅリはしばらくそれを見上げた。手を伸ばして、文字の端をそっと触れた。


「これは……三十年以上前に書いたものです。

 ヨルクの父親の代から」

 ツヅリは低い声で言った。

 

「あの人は筆を入れる前に、必ず板を撫でる癖がありました。

 木の具合を確かめるって言って。

 最初は変な癖だと思っていたけど、そのうち、それをしないと落ち着かなくなると言うようになって」


 隣に立って、黙って聞いた。


 ツヅリの指が文字をなぞる。

 その瞬間、歪みが少し緩むのを感じた。

 ほんのわずか——でも確かに、文字が少し息をした気がした。


 次の看板へ、また次の看板へ。


 乾物屋の看板は、ご主人が熱を出しながら仕上げたものだという。

「頼むから寝ていてくれと言ったのに、約束した日に間に合わないのが嫌だと言って。

 頑固な人でした」

 とツヅリは言った。

 仕立て屋のは、若い頃の筆跡でまだ少し荒い。


「腕が上がる前の字だから、本人は好きじゃなかったみたいです。

 でも私は、この頃の字も好きでした」

 薬草屋のは晩年の、一番円熟した字だとツヅリは言った。

「線が静かになっていった。歳を取るにつれて」


 一つ一つに、思い出があり、記憶があり、出会いがある。


 歩きながら、少しずつツヅリの横顔を見た。

 最初の強張りが、少しずつほどけていく。

 背筋はまっすぐなままだ。

 泣きはしない。

 でも目が何度か潤んだ。

 それをツヅリは気づかれないように、さりげなく視線を逸らして処理した。

 弱音を見せない人の、小さな作法だ。

 気づかないふりをしよう。


 町の端まで来たとき、最後の看板の前でツヅリは長く立ち止まった。


 図書館の脇に掛かっている、小さな案内板だった。

 他の看板より目立たない場所にある。

 でもツヅリの足が、そこで初めてはっきりと止まった。


「これが最後に書いたものです」

 ツヅリはゆっくり言った。

「体が弱ってから、もう筆は持てないだろうと私も思っていた。

 本人もそう言っていた。

 なのに——図書館の分だけは、どうしても自分で書くと言って。

 止めても聞かなくて」


 その看板を見た。

 他の看板より線が細い。

 でも丁寧で、一字一字に力が込められている。

 弱った手で書いたことがわかるのに、文字に迷いがない。


「なぜ図書館だったんですか」


「さあ」

 ツヅリは少し間を置いた。

「あの人はオーリンさんのことを、ずっと前から知っていたみたいで。

 どんな縁があったのかは聞いたことがなかった。

 でも特別な場所だったんでしょう。

 最後の力を使うだけの場所…」


 ちらりと図書館の窓を見た。

 中に人影があるような気がしたが、確かめなかった。

 確かめる必要はない、と。


 ツヅリが看板に手を当てた。

 今度は指先だけでなく、手のひら全体で。

 しばらく何も言わなかった。

 風が吹いて、水路の水面が揺れた。


「……未だに寂しいんです」

 静かな声だった。

 泣いていない。

 でもこれが、この人が今日初めて本当のことを言った声だと思った。


「一年経っても、全然。

 時が経てば、楽になると言ったのは誰だったのか。

 あんな嘘をついた人を、少し恨んでいます」

 ツヅリの本音が漏れる。


「そうですね」

 私は頷いた。

「一年で楽になるような悲しみじゃなかったんでしょう」


 ツヅリは少し黙った。


「でも」

 静かに言った。


「あの人の生きた証を消したくはない。

 やっぱり…ね…」


 その言葉と同時に、歪みが解けるのを感じた。

 じわりと、水が染み込むように。

 閉じていたものが、静かに息を吹き返すように解放される感触。


 顔を上げると、図書館の案内板の文字が、読めるようになっていた。


 帰り道、二人はしばらく並んで歩いた。


 行きと違って、ツヅリは私の隣を歩いていた。

 半歩後ろではなく。

 それに気づいたが、何も言わなかった。


「ありがとうございました」ツヅリが言った。


「お互い仕事ですから」


「あなたは記録師でしょう。これは仕事じゃないでしょうに」


 少し考えた。

 そうだ、これは仕事ではない。

 依頼があったわけでも、報酬があるわけでもない。

 ではなんでこんなことをしているのか——うまく言葉にならなかった。

 あの歪みの感触を感じてしまったら、ほっておけなかった、それだけかもしれない。


「まあ、そうですね」


 ツヅリは小さく笑った。

 最初で最後の、この日の笑顔だった。

 皺の深い、でも確かに笑顔だった。


「あなたも、何かあってこの町に来た人でしょう?」

 ツヅリは言った。

「顔に出ています」


 少し驚いた。文字占い師だからか、それともただの勘か。


「……いろいろあって」


「そうですか」

 ツヅリはそれ以上聞かなかった。

「ヴェルタは、そういう人が来る町みたいです。

 あの人もそう言っていました」


 石橋のところで二人は別れた。

 ツヅリの背中を見送りながら、町の看板をもう一度見渡した。

 どれも、ちゃんと読める。


 当たり前のことが、当たり前に戻っている。


 でも今日歩いたこの町は、昨日までとは少し違って見えた。

 一つ一つの看板の裏に、誰かの話がある。

 ヴェルタはそういう町だったのだと、今日初めて知った気がした。


 鐘楼から、午後を告げる鐘の音が響いた。


二話終了。三話に続く。


いかがでしょうか?

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