第1話 書けない文字
どきどきしながら 第一話を投稿します。
記録師、ひょんな発想から生まれました。
日常およびご近所の謎、しばらくお付き合いください。
私の朝の仕事は、インクを作るところから始まる。
小さな石皿の上で霧苔の乾燥粉末をすり潰しながら、窓の外を眺める。
今日も霧が出ているようだ。
水路から立ち上る白い靄が石畳を這い、向かいの家の鎧戸をぼんやりとにじませている。
ヴェルタの朝はいつもこう。
粉末に定着液を数滴垂らし、丁寧に練る。
色が均一になるまで、急いではいけない。
霧苔インクは気難しい。
温度と湿度と、練る速さ——どれか一つでも外れると、乾いたあとの魔力の乗りが変わる。
この作業が嫌いではないんだよね。
頭を使わなくていい時間というのは、案外貴重だと思う。
考えなくてはならないことが、あまりにも多い世界で。
硝子瓶に移して栓をする。
緑がかった黒が、光の角度によって深みを変える。
悪くない出来だ。
棚に瓶を並べながら、今日の仕事を頭の中で整理した。
午前中に昨日の土地契約書の清書を仕上げ、午後は図書館からの古文書解読依頼に取りかかることにしよう。
どちらも急ぎではないけど、丁寧にやれば半日ずつで終わるかな??
椅子を引いて座り、羊皮紙を広げた。
ペンを取り、インクを含ませる。
ヴェルタの仕事、特に記録師の仕事は、地味だと思う。
以前いた都市では、一日に十件二十件と依頼をこなしていたなぁ。
重要な契約書、貴族の遺言状、ギルドの公式記録——扱う文書の規模も金額も、比べものにならない。
それを捨ててここに来た。
来ざるを得なかった、というのが正確だけど、今となってはどちらでもよかった…。
この町の仕事は小さい。
でも一つ一つが、誰かの暮らしに直接つながっている。
それが私には、ちょうどよく気持ちが安らぐ。
書き始めて三十分ほどが経ったころ、扉がノックされた。
「はい」
扉をあけると入ってきたのはルーカス。
図書館の写字師で、四十がらみの、肩幅の広い男の人。
仕事中はいつも同じ濃紺の上着を着ていて、指には墨の染みが残っている。
私がこの町に来た当初、図書館でよく顔を合わせたっけ。
口数が少なく、挨拶も必要最小限。
最初は愛想のない男だと思っていたけど、そうではないとわかるのに時間はかからなかった。
ただ余計なことを言わない人間なのだ。
私はそういう人間を信用することにしている。
でも、ただ今日は様子がおかしかった。
部屋に入ってきたのに、扉の近くで止まっている。
帽子を両手で持て余し、視線が定まらない。
「座ってください。立たれてると首が疲れるから」
椅子を顎で示すと、ルーカスはぎこちなく腰を下ろした。
それからまた黙った。
う~ん、ちょっと気まずい。
「相談があって来たんですよね」
我慢できずペンを置いて聞いてみる。
「私、午後にも仕事があるんですが…」
「……急かすな」
あ、ヒドイ(泣)
「急かしてませんよぉ。確認しただけです」
ルーカスは帽子の縁を指でなぞった。
一度、二度。それから、低い声で言った。
「書けない文字がある」
手を止めた。
「写字師が?」
「一文字だけだ」ルーカスは膝の上の帽子を見たまま言った。
「他は問題ない。ただその一文字だけ、ペンが——止まる」
「いつから」
「半年ほど前から、少しずつ。
最初は気のせいかと思った。
だが最近は、その文字が出てくるたびに——」
彼は言葉を切った。
「仕事にならない」
しばらくルーカスの顔を見た。
写字師にとって、文字が書けないというのは致命的かも。
手の怪我でも呪いでもなく、特定の一文字だけ書けないとなれば、なおさら人に打ち明けにくい。
この人がここに来るまでにどれだけ迷ったか、その顔を見ればわかった。
「見せてもらえますか、その文字」
ルーカスが懐から取り出したのは、折りたたまれた紙だった。
丁寧に折られているが、端が少しよれている。
何度も出し入れしたことが解る。
広げると、びっしりと文字が並んでいた。
写字師らしい、均整のとれた美しい文字だ。
一行一行が水平を保ち、字間も一定で、素人目にも腕のよさがわかる。
ただ一箇所を除いて。
「これですね」
「ああ」
問題の箇所に目を近づけた。
ある行の途中、明らかにためらいの痕跡がある。
何度も書き直したらしく、その部分だけ紙が薄く毛羽立っていた。
それでも最終的にその文字は、周囲の文字と比べて奇妙に浅く、力がない。
まるで幽霊のように紙の上に乗っている。
文字を眺めた。北方の言語に使われる特殊な字だとすぐにわかった。
通常の字母の上に、小さな点が二つ横に並ぶ。
「珍しい文字ですね。北方系のものですか?」
「そうだ」
「どんな発音ですか」
ルーカスは少し間を置いて答えてくれた。
「……喉で鳴らす感じだ。
南の人間には出しにくい音で、大陸の北の方へ行かないと使わない。
ここらでこの文字が出てくる文書は、まず北の出身者が絡んでいる」
「点が二つ並ぶのは、発音が変わる印ということ?」
「そうだ。点なしの字母とは別の音になる。
元々は同じ字から派生したが、北の気候と地形の中で独自に変化した——と、昔習った」
「へえ…」
もう一度文字を見た。
北方関係の文書にしか出てこないのかもしれない。
「書くのは難しくないんですか、普段は」
「難しくはない。
手癖で書ける。
書けた、というべきか」
ルーカスは苦い顔をした。
指先でそっとその文字に触れた。
かすかな痺れが走った。
表情を変えないよう気をつけながら、感触を確かめた。
記録師にもいろいろあるけど、私と師匠には共通点があった。
書かれた文字に込められた様々なモノを読み取ることが出来る。
ゆっくりルーカスが持ち込んだ羊皮紙をなぞる。
これは呪いではない。
呪いの歪みはもっと鋭い。
外から押しつけられたような、不自然な感触がある。
これは違う。
内側から——ゆっくりと、長い時間をかけて滲み出てきたような、古くて重い何かだ。
少し考えた。
痛みの感触には種類がある。
鋭くて新しい痛みと、古くて鈍い痛みは違う。
これは後者だ。
長い時間をかけて積み重なった、後悔に近い何か。
そしてこの文字。
北方の特殊な字母——南の文書にはまず出てこない。
わざわざこれが書けなくなるということは、この文字と深い関わりがある。
仕事で日常的に使う文字なら、むしろ体が慣れていくはずだ。
書けなくなるとすれば——意識が拒んでいる。
それも、長い年月をかけて。
「痛みですね」
「は?」
ルーカスは、意表を突かれた表情をしていた。
「この文字に触れて感じるもの、です」
ゆっくり言った。
「魔法的な問題じゃない。外から誰かにかけられたものじゃなくて、
あなた自身の中にある何かが——この文字を書くことを、拒んでいる」
ルーカスは黙った。
帽子を握る手が、少し強くなった。
「私の能力で感じ取れるのはそこまでです。
理由まではわからない。
でも一つだけ聞いていいですか」
「……なんだ」
「この文字が使われているのは、北方の辺境の地の場所や建物、あなたに縁のある言葉ですか」
ルーカスの顔がかすかに動いた。ほんの一瞬のことだったが、私にとっては十分だった。
「少し調べさせてください。明日、また来てもらえますか」
ルーカスは黙って立ち上がり、帽子を被った。扉に向かいかけて、振り返った。
「……頼む」
何か聞きたそうだったが、それだけ言って、出ていった。
※※
その足で図書館に向かった。
ヴェルタの図書館は、かつての写本工房を転用した石造りの建物だ。
表通りから一本入った場所にあり、外観は地味だが、中に入ると天井まで届く書棚が何列も並んでいる。
蔵書の量は、この町の規模には不釣り合いなほどだ。
古文書の羊皮紙の匂いと、微かな霧苔インクの香りが混じった、独特の空気がある。
これほどの蔵書を誇る図書館は少ない。王都のそれと比べても引けは取らない規模だ。
その割には、司書の数は少ないし、どうやって運営が成り立っているか不思議だと思っている。
でも私はこの図書館が好きだし、この匂いが好きだった。
司書のオーリンは地図棚の梯子の上にいた。
いつもどこかにいる、というのが私のオーリンに対する印象だった。
朝来ても夜来ても、必ず図書館のどこかにいる。
この建物で寝泊まりしているのではないかと思うことがある。
聞いたことはないが、聞いても「さあ」と言われるだろうと思っている。
「オーリンさん」
見上げると、白い頭が梯子の上からこちらを向いた。
穏やかな目が見下ろしてくる。
「珍しいね、こんな時間に」
「少し調べたいことがあって。
北方の地名か建物で、この文字を使う場所や建物を探したいんですが」
紙を差し出すと、オーリンは梯子の上からしげしげと眺めた。
「ふむ」
「ふむ、じゃなくて。わかりますか」
「せっかちだね、エイダさんは」
オーリンは笑った。
いつもこうだ。何か尋ねると答えてくれるのに、簡単には答えてくれない。
「急いでいるんです」
「急いでいる様子には見えないけれど」
「急いでいます」
オーリンは小さく笑って、ゆっくりと梯子を降りた。
その動きに迷いはなく、どこに何があるか完全に把握しているのがわかる。
この図書館の全蔵書の配置が、この老人の頭の中に入っているのだと思っている。
何万冊あるかも知れない本の、全部が。
オーリンは書棚の間を迷いなく歩き、少し離れた棚から一冊の古びた地誌を引き抜いた。
「《テルン》。
北の辺境の小村だよ。
今はもう地図から消えかけている」
ページを開いた。
確かにその文字が使われていた。
地誌には、霧深い山間の集落だとある。
主な産業は羊毛と林業、人口は最盛期でも三百に満たなかったと書いてある。
「誰かの故郷かな」とオーリンが言った。
「たぶん」
「そうかい」老司書は地誌を受け取り、棚に戻した。
それ以上は聞かなかった。
余計な事は聞かないし、語らない。
オーリンのそこが好きだ。
この老人は、聞かなくていいことを聞かない。
翌朝、ルーカスの仕事場を訪ねた。
図書館の東棟、写字師たちが使う細長い部屋だ。
南向きの窓が並び、午前中は光が入って明るい。
その時間、ルーカスは一人で作業していた。
入ってきても、すぐには顔を上げなかった。
今の一行を書き終えてから、ペンを置く。
それがこの男の流儀らしい。
「昨日の続きです」
向かいの椅子を引いて座った。
「《テルン》ですよね」
ルーカスは否定しなかった。
「故郷ですか」
「……ああ」
「いつ出てきたんですか」
「二十年前だ」ルーカスは窓の外を見た。
石畳と、その向こうの水路が見える。
「家族と、うまくいかなくて。
若かったし、頭に血が上っていた。
飛び出して、それきりだ」
「ご両親は?」
ルーカスの肩が少し動いた。
「……父は早くに亡くなった。
母は…まだ生きているかどうかも、わからない。
手紙を出そうとしたことは、何度もある。
書きかけて、やめた。それを繰り返した」
ルーカスの肩が震えている。
「書けなかった」
「書けなかった。最初は気持ちの問題だと思っていた。
だがいつの間にか、気持ちより先に手が止まるようになっていた」
ルーカスは、何かをこらえるように俯いている。
「呪いじゃないですよ、やっぱり」
「わかってる」
「わかってて来たんですか」
「文字の問題だと思ったんだ。
記録師なら何かわかるかと——」ルーカスは言葉を止めた。
少し間があった。
「……正直、どうしたらいいかわからなくなっていた。
それだけだ」
ルーカスは私を見つめている。なにか思いが交錯するような
いたたまれないような感覚が生まれた。
ルーカスの手を見る。
大きな、職人の手だ。
今は机の上で静かに置かれているが、インクの染みが深く刻まれている。
何万、何十万という文字を書いてきた手だ。
その手が、一文字だけ書けない。
立ち上がり、部屋の棚から羊皮紙を一枚取った。
インクの入った小瓶と、予備のペンも。
それをルーカスの机の前に置いた。
「書きましょう。今ここで」
「急だな」
「急じゃないでしょう、二十年経ってるんだから」
ルーカスは一瞬、こちらの顔を見た。
何か言いかけて、やめた。
それから小さく息を吐いて、ペンを取った。
手紙は長くなかった。
長い言葉は要らないと思った。
二十年分を全部書こうとしなくていい。
謝罪も説明も、全部書こうとすれば何枚あっても足りない。
まず一行でいい。
生きているかと聞く、それだけでいい。
ルーカスは何度か止まった。
ペンが紙の上で止まり、宙に浮く。
何も言わなかった。
急かさなかった。
自分でも少し意外だったが、
急かしたいとまったく思わなかった。
代わりに、自分の仕事道具を取り出して、隣の机で清書の続きをやった。
同じ部屋に二人いて、それぞれが黙って文字を書いている。
おかしな時間だったが、悪くなかった。
ルーカスが、ふと言った。
「あんたは、どうしてここにいるんだ?」
ペンを止めた。
「ヴェルタに、ということですか」
「腕のいい記録師が、こんな辺鄙な町にいる理由がわからない」
「いろいろあって」
「そうか」
ルーカスはそれ以上聞かなかった。
私も答えなかった。
それでよかった。
しばらくしてルーカスが、深く息を吐いた。ペンを置く音がした。
「書けました?」
「ああ」
「問題の文字、別の紙に書いてみてください」
ルーカスはペンを取り、別の紙に向かう。少し間があった。
文字は、すっと書けた。
書けている!
ルーカスはしばらくその文字を見つめた。
私も見た。
点が二つ並んだ、北方由来の文字。
何でもない一文字に見えるが、この人にとっては二十年分の重さがあるんだと思う。
「届くといいですね」
自分の道具をまとめながら言った。
「ああ」
ルーカスはもう一度文字を見てから、静かに言った。
「……ありがとう」
「お互い仕事ですから」
立ち上がって、部屋を出た。
石畳の廊下を歩きながら、なんとなく足が軽い気がする。
記録師の仕事は、書かれた文字を扱う。
契約書、遺言状、証言の記録——それは人の人生の、大事な瞬間を紙の上に留める仕事だ。
でも今日やったことは、そのどれでもなかった。
文字を書けなくなった男の隣に座って、ただそこにいただけだ。
それでも、なんだか悪くない時間だった。
図書館の前を通り過ぎるとき、中からオーリンの声がした。
「どうだったかね」
振り返ると、開いた扉の隙間から白い頭がのぞいていた。
「解決しました」
「そうかい」
「見ていたんですか」
「通りかかっただけだよ」
少し考えて、「そうですか」と言った。
追及しても「さあ」と言われるだけだとわかっていた。
オーリンの得意な返事が返ってくるだけ。
オーリンは扉の隙間から、穏やかな目で見ている。
「よかったね」
それだけ言って、扉を閉めた。
ヴェルタの空は、今日も穏やかに曇っていた。水路を流れる水の音が、石畳に静かに響いていた。
一話完了。二話に続く。
いかがでしょうか?
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