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22/24

第21話 マリスの台所

ヴェルタの町に越してきたマリスとの話です。

師匠の話ができる数少ない人との交流です。

 マリスが越してきてから、十日ほどが経っていた。


 水路の向こうの家に、夕暮れ時になると灯りが点くようになった。

 それだけのことなんだけど、窓からそれを見るたびに、なぜか少し安心する。

 自分でも不思議だった。

 以前からあの家には誰かが住んでいたわけでもないのに、今は灯りが点かないと「まだ帰っていないのか」と思うようになっていた。


 ある朝、霧苔インクを仕込みながら窓の外を見ていたら、水路の向こうから何かの匂いが漂ってきた。


 玉葱を炒める匂いだった。バターと、何か香辛料の、嗅いだことのある温かい匂い。

 朝の霧の中を、その匂いがゆっくりと漂って、窓の隙間から入り込んできた。


 石皿の上で粉末をすり潰す手が止まった。


 別に、行かなくていい。

 今日の午前中には契約書の清書が一件ある。

 そちらを先に済ませれば——


 でも足は、もう立ち上がっていた。


 こういう時、自分の身体が自分より賢い気がすることがある。

 頭が迷っている間に、手や足がさっさと動いている。

 正しい方向かどうかはわからないけど、少なくとも考えすぎよりはましだ。

 最近、そう思い始めていた。


 石畳を水路の方へ歩いた。朝の靄が低く漂っていて、向かいの屋根が白くにじんでいる。

 橋を渡ると、マリスの家の扉が少し開いていた。開け放しているのでなく、ただ閉め忘れたような、うっかりした感じの開き方だった。


 ノックした。


「はい」と声がした。「——ああ、エイダさん」


 マリスが顔を出した。


 エプロンをつけていて、右手に木匙を持っている。

 髪に白いものが混じっているのはいつも通りだけど、今日は少し後れ毛が出ていて、それが妙に人間らしく見えた。

 越してきた日のあの整った立ち居振る舞いとは少し違う、生活の中にいる人間の顔だ。


「朝から何か煮ていますか」言った。

「匂いがこちらまで来ていて」


「煮込みです。蕪と豆の」マリスは少し笑った。

「朝から煮込みを作る人間はおかしいかもしれませんけれど、夕方に温め直す方が味が出るので」


「おかしくないです」少し考えてから言った。

「私もたまにやります」


「そうですか」


 マリスは扉を開けて、中に入るよう示した。

 少しためらってから、入った。


 十日前とは部屋の様子がかなり変わっていた。


 積まれていた箱の多くは片付いて、本が棚に並んでいる。

 本が多い棚だ。背表紙の色がばらばらで、統一感はないけれど、何度も読まれた形跡がある。

 革の表紙がへたっていたり、背がほつれていたりする本が多い。

 どれも長く手元に置かれてきた本だとわかる。

 窓際には小さなテーブルと二脚の椅子があって、テーブルの上に陶器のカップが一つ。

 使いかけのカップだ。今朝ここで一人で茶を飲んだ、その形跡がある。


 台所の方から、ことこと煮立つ音がした。


「茶を出しましょうか」マリスは言った。


「いえ、少しだけ。仕事の前なので」


「座ってください」


 椅子に座った。マリスは台所で茶の用意をしながら言った。


「荷解きが終わって、少し落ち着きました。

 蝋燭が足りないのと、棚の一番上に手が届かないのと、その二つが今困っていることで」


「蝋燭はヨルクの店で買えます。

 棚は——何か踏み台になるものを探せば」


「木匙を持ちながら棚に登れるか、昨日試しました」


「やめてください」思わず言った。

「怪我しても知りませんよ」


「そうですね」マリスは少し笑って、茶を持ってきた。


 椅子に座って、自分も一口飲んだ。

 少し間があった。台所から煮込みの匂いが漂ってくる。

 外の水路の音が、静かに聞こえている。


 その沈黙が、居心地よかった。


 少し意外だった。ヴェルタに来てから三年間、静かであることには慣れていたつもりだった。

 でもこれは少し違う。

 一人でいる静けさじゃなくて、誰かと一緒にいる静けさだ。

 この二つはまったく別の質のものだと、今さら気がついた。


「師匠は寝起きが悪かったですか」


 自分でも少し驚いた。

 なぜそんなことを聞いたのか、うまく説明できない。

 ただ、聞きたかった。

 師匠の本を読んで、その後オーリンとも話して、師匠のことが少しわかった気がしていた。

 でもわかったのは「記録師としての師匠」で、「人間としての師匠」はまだぼんやりとしていた。


「悪かった、というより——起きてから動き出すまでに時間がかかる人でした」マリスは静かに言った。

「朝の最初の一時間は、声をかけても短い返事しかしない。

 お茶を飲み終わるまで、人の言葉が入らないみたいで」


「そうだったんですか」


「知りませんでしたか」


「私が弟子だった頃は、師匠の家に住んでいたわけじゃないので。

 朝の様子はあまり知らなくて」


「朝が駄目な分、夜は長く仕事をする人でした」マリスは言った。

「ランプの油が切れるまで書いていて、それでも続きがある時は暗い中で続けていた。

 文字がよれていてもわかるのか、と聞いたら——歪みがあれば指でわかると言っていた」


 少し笑った。


「それは本当のことです。

 暗くても触ればわかる。

 ただ書くのは難しい。

 暗くても書けると言っていた師匠が、どうやっていたのかは今でも謎です」


「好きな食べ物は、固いパンでした」マリスは続けた。

「柔らかいパンより固い方が好きで。

 焼きたてより少し置いたものが特に好きで。

 それを厚く切って、塩だけで食べていた」


「質素ですね」


「食に興味がなかった。

 でも——固いパンを自分で薄く切るのが嫌いで、いつも誰かに切らせていた。

 薄く切るのには誰かの手が要るのに、食べ物そのものには構わない、変な人でした」


 その話を聞いていると、師匠の姿が少しずつ輪郭を持ってくるような気がした。

 本を読んだ時に感じたのとは違う、もっと小さな、生活の中の師匠の形。

 誰の手を借りなくても固いパンなら自分で切れるはずなのに、なぜか人に頼む——そういう細かな不思議が、人の人格を作っているのかもしれない。


「口癖はありましたか」そう聞いてみた。


「『そういうものだ』という言葉をよく使っていました。

 何かを説明する時に——これがこうなのは、そういうものだ、と言って終わらせる癖があって。

 最初は投げやりな人だと思いましたが、そうではなかった。

 納得しているんです、本人は。

 ただ言葉にするのが苦手で、『そういうものだ』という一語でまとめていた」


 それを聞いて、少し胸の中で何かがざわめくのを感じた。


「私に言っていたことで、今でも覚えているのがあります。

 文字の歪みが読めるのはお前と私だけだ、というのが最初で。

 そのあと弟子入りして少し経ってから——これは仕事のための能力じゃない、と言っていた」


「どういう意味で?」


「わからなかった、あの頃は。

 仕事のために使うものではなかったら、何のためなんだと聞き返したら、

 師匠は少し間を置いてから、『そういうものだ』と言っていました」

 

 私は少し笑った。

 

「典型的ですね」


「典型的」マリスも小さく笑った。

「そうですね、本当に」


 二人の笑いが、台所の煮込みの音の中で静かに消えた。


 カップを両手で持った。

 陶器が少し冷めていて、手のひらにほどよく温かい。


 師匠のことを笑いながら話したのは、初めてだと気づいた。


 これまでは師匠の話は重かった。

 消えたこと、記録が消えたこと、組織との関係——そういうことばかりが先に来て、師匠という人間の輪郭がいつも悲しみの影の中にあった。

 でも今ここで、寝起きが悪かったこと、固いパンが好きだったこと、「そういうものだ」が口癖だったこと——そういうことを話していたら、師匠が少し違う場所に来た気がした。

 遠い痛みの中ではなく、もっと普通の、懐かしいという感触の中に。


「師匠の本は、読みましたか」


 マリスが静かに聞いた。


「読みました」


「そうですか」


 マリスはそれだけ言って、何かを胸の中にしまうような顔をした。

 その「何か」が何であるか、聞けなかった。

 聞くべきことでないような気がした。

 マリス自身にも、師匠への記憶があって、それはエイダに渡せるものと渡せないものがある。

 エイダの師匠であると同時に、マリスにとっては長い付き合いの友人だった人だ。


「良かった」マリスは少ししてから言った。

「読んでもらえて、良かった」


 頷いた。


 立ち上がって、茶のお礼を言った。

 マリスは「また来てください、煮込みが余ったら持っていきます」と言った。

 「余らせるくらい作らないでください」と返した。

 マリスは「余ったら困るのはわかっています、でも少量を上手に作るのが下手で」と言って、また少し笑った。


 石畳に出ると、霧が晴れかけていた。


 橋の上で立ち止まって、水路を見下ろした。

 水面に、空の白がゆっくりと映っている。

 風が吹いて、映った白が揺れた。


 ヴェルタに来てから、ここで笑ったことが何度あったかを数えようとして、やめた。


 数えるより多い気がしたから。


 そう気づいたことが、少し、嬉しかった。


第21話終了。22話に続く。


いかがでしょうか。


感想、コメント、頂けましたら幸いです。

フォローもよろしくお願いいたします。


毎日投稿中です。明日は22話です。

よろしくお願いいたします。

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