第21話 マリスの台所
ヴェルタの町に越してきたマリスとの話です。
師匠の話ができる数少ない人との交流です。
マリスが越してきてから、十日ほどが経っていた。
水路の向こうの家に、夕暮れ時になると灯りが点くようになった。
それだけのことなんだけど、窓からそれを見るたびに、なぜか少し安心する。
自分でも不思議だった。
以前からあの家には誰かが住んでいたわけでもないのに、今は灯りが点かないと「まだ帰っていないのか」と思うようになっていた。
ある朝、霧苔インクを仕込みながら窓の外を見ていたら、水路の向こうから何かの匂いが漂ってきた。
玉葱を炒める匂いだった。バターと、何か香辛料の、嗅いだことのある温かい匂い。
朝の霧の中を、その匂いがゆっくりと漂って、窓の隙間から入り込んできた。
石皿の上で粉末をすり潰す手が止まった。
別に、行かなくていい。
今日の午前中には契約書の清書が一件ある。
そちらを先に済ませれば——
でも足は、もう立ち上がっていた。
こういう時、自分の身体が自分より賢い気がすることがある。
頭が迷っている間に、手や足がさっさと動いている。
正しい方向かどうかはわからないけど、少なくとも考えすぎよりはましだ。
最近、そう思い始めていた。
石畳を水路の方へ歩いた。朝の靄が低く漂っていて、向かいの屋根が白くにじんでいる。
橋を渡ると、マリスの家の扉が少し開いていた。開け放しているのでなく、ただ閉め忘れたような、うっかりした感じの開き方だった。
ノックした。
「はい」と声がした。「——ああ、エイダさん」
マリスが顔を出した。
エプロンをつけていて、右手に木匙を持っている。
髪に白いものが混じっているのはいつも通りだけど、今日は少し後れ毛が出ていて、それが妙に人間らしく見えた。
越してきた日のあの整った立ち居振る舞いとは少し違う、生活の中にいる人間の顔だ。
「朝から何か煮ていますか」言った。
「匂いがこちらまで来ていて」
「煮込みです。蕪と豆の」マリスは少し笑った。
「朝から煮込みを作る人間はおかしいかもしれませんけれど、夕方に温め直す方が味が出るので」
「おかしくないです」少し考えてから言った。
「私もたまにやります」
「そうですか」
マリスは扉を開けて、中に入るよう示した。
少しためらってから、入った。
十日前とは部屋の様子がかなり変わっていた。
積まれていた箱の多くは片付いて、本が棚に並んでいる。
本が多い棚だ。背表紙の色がばらばらで、統一感はないけれど、何度も読まれた形跡がある。
革の表紙がへたっていたり、背がほつれていたりする本が多い。
どれも長く手元に置かれてきた本だとわかる。
窓際には小さなテーブルと二脚の椅子があって、テーブルの上に陶器のカップが一つ。
使いかけのカップだ。今朝ここで一人で茶を飲んだ、その形跡がある。
台所の方から、ことこと煮立つ音がした。
「茶を出しましょうか」マリスは言った。
「いえ、少しだけ。仕事の前なので」
「座ってください」
椅子に座った。マリスは台所で茶の用意をしながら言った。
「荷解きが終わって、少し落ち着きました。
蝋燭が足りないのと、棚の一番上に手が届かないのと、その二つが今困っていることで」
「蝋燭はヨルクの店で買えます。
棚は——何か踏み台になるものを探せば」
「木匙を持ちながら棚に登れるか、昨日試しました」
「やめてください」思わず言った。
「怪我しても知りませんよ」
「そうですね」マリスは少し笑って、茶を持ってきた。
椅子に座って、自分も一口飲んだ。
少し間があった。台所から煮込みの匂いが漂ってくる。
外の水路の音が、静かに聞こえている。
その沈黙が、居心地よかった。
少し意外だった。ヴェルタに来てから三年間、静かであることには慣れていたつもりだった。
でもこれは少し違う。
一人でいる静けさじゃなくて、誰かと一緒にいる静けさだ。
この二つはまったく別の質のものだと、今さら気がついた。
「師匠は寝起きが悪かったですか」
自分でも少し驚いた。
なぜそんなことを聞いたのか、うまく説明できない。
ただ、聞きたかった。
師匠の本を読んで、その後オーリンとも話して、師匠のことが少しわかった気がしていた。
でもわかったのは「記録師としての師匠」で、「人間としての師匠」はまだぼんやりとしていた。
「悪かった、というより——起きてから動き出すまでに時間がかかる人でした」マリスは静かに言った。
「朝の最初の一時間は、声をかけても短い返事しかしない。
お茶を飲み終わるまで、人の言葉が入らないみたいで」
「そうだったんですか」
「知りませんでしたか」
「私が弟子だった頃は、師匠の家に住んでいたわけじゃないので。
朝の様子はあまり知らなくて」
「朝が駄目な分、夜は長く仕事をする人でした」マリスは言った。
「ランプの油が切れるまで書いていて、それでも続きがある時は暗い中で続けていた。
文字がよれていてもわかるのか、と聞いたら——歪みがあれば指でわかると言っていた」
少し笑った。
「それは本当のことです。
暗くても触ればわかる。
ただ書くのは難しい。
暗くても書けると言っていた師匠が、どうやっていたのかは今でも謎です」
「好きな食べ物は、固いパンでした」マリスは続けた。
「柔らかいパンより固い方が好きで。
焼きたてより少し置いたものが特に好きで。
それを厚く切って、塩だけで食べていた」
「質素ですね」
「食に興味がなかった。
でも——固いパンを自分で薄く切るのが嫌いで、いつも誰かに切らせていた。
薄く切るのには誰かの手が要るのに、食べ物そのものには構わない、変な人でした」
その話を聞いていると、師匠の姿が少しずつ輪郭を持ってくるような気がした。
本を読んだ時に感じたのとは違う、もっと小さな、生活の中の師匠の形。
誰の手を借りなくても固いパンなら自分で切れるはずなのに、なぜか人に頼む——そういう細かな不思議が、人の人格を作っているのかもしれない。
「口癖はありましたか」そう聞いてみた。
「『そういうものだ』という言葉をよく使っていました。
何かを説明する時に——これがこうなのは、そういうものだ、と言って終わらせる癖があって。
最初は投げやりな人だと思いましたが、そうではなかった。
納得しているんです、本人は。
ただ言葉にするのが苦手で、『そういうものだ』という一語でまとめていた」
それを聞いて、少し胸の中で何かがざわめくのを感じた。
「私に言っていたことで、今でも覚えているのがあります。
文字の歪みが読めるのはお前と私だけだ、というのが最初で。
そのあと弟子入りして少し経ってから——これは仕事のための能力じゃない、と言っていた」
「どういう意味で?」
「わからなかった、あの頃は。
仕事のために使うものではなかったら、何のためなんだと聞き返したら、
師匠は少し間を置いてから、『そういうものだ』と言っていました」
私は少し笑った。
「典型的ですね」
「典型的」マリスも小さく笑った。
「そうですね、本当に」
二人の笑いが、台所の煮込みの音の中で静かに消えた。
カップを両手で持った。
陶器が少し冷めていて、手のひらにほどよく温かい。
師匠のことを笑いながら話したのは、初めてだと気づいた。
これまでは師匠の話は重かった。
消えたこと、記録が消えたこと、組織との関係——そういうことばかりが先に来て、師匠という人間の輪郭がいつも悲しみの影の中にあった。
でも今ここで、寝起きが悪かったこと、固いパンが好きだったこと、「そういうものだ」が口癖だったこと——そういうことを話していたら、師匠が少し違う場所に来た気がした。
遠い痛みの中ではなく、もっと普通の、懐かしいという感触の中に。
「師匠の本は、読みましたか」
マリスが静かに聞いた。
「読みました」
「そうですか」
マリスはそれだけ言って、何かを胸の中にしまうような顔をした。
その「何か」が何であるか、聞けなかった。
聞くべきことでないような気がした。
マリス自身にも、師匠への記憶があって、それはエイダに渡せるものと渡せないものがある。
エイダの師匠であると同時に、マリスにとっては長い付き合いの友人だった人だ。
「良かった」マリスは少ししてから言った。
「読んでもらえて、良かった」
頷いた。
立ち上がって、茶のお礼を言った。
マリスは「また来てください、煮込みが余ったら持っていきます」と言った。
「余らせるくらい作らないでください」と返した。
マリスは「余ったら困るのはわかっています、でも少量を上手に作るのが下手で」と言って、また少し笑った。
石畳に出ると、霧が晴れかけていた。
橋の上で立ち止まって、水路を見下ろした。
水面に、空の白がゆっくりと映っている。
風が吹いて、映った白が揺れた。
ヴェルタに来てから、ここで笑ったことが何度あったかを数えようとして、やめた。
数えるより多い気がしたから。
そう気づいたことが、少し、嬉しかった。
第21話終了。22話に続く。
いかがでしょうか。
感想、コメント、頂けましたら幸いです。
フォローもよろしくお願いいたします。
毎日投稿中です。明日は22話です。
よろしくお願いいたします。




