第20話 ヴェルタが作られた日
ヴェルタの町のことが語られます。
オーリンは、この町と、どうかかわっていたのでしょうか?
図書館の保管庫を整理していたのは、雪が降り始める少し前の、曇った午後のことだった。
オーリンに頼まれて、奥の保管庫の台帳を整理していた。
使われなくなった古い記録を棚の奥に移し、よく使う資料を手前に並べ直す——地味な作業だけど、こういう整理は定期的に必要だ。
窓がなく、ランプだけの部屋だ。古い紙と革の匂いが積み重なって、独特の空気になっている。
宝探しに似た感覚、とこういう作業をするたびに思う。
何が出てくるかわからない。
棚の一番奥から、布に包まれた台帳が出てきた。
かなり古い。布が変色していて、紐がほどけかけている。
丁寧に広げた。
触れた瞬間、強い歪みを感じた。
古い記録特有の重さだ。
何百年分もの時間が、文字に染み込んでいる。
でも——歪みの質が、いつも感じるものと違った。
もっと純粋で、迷いがない。
書いた人間が心から信じていることを書いた感触だ。
文字を見ると、丁寧で力強い筆跡だった。
書いた人間がこの出来事を大切に思っていることが、文字の一本一本から伝わってくる。
「オーリンさん」保管庫から声をかけた。
「少し面白いものが出てきました」
老司書がやってきた。
台帳を見て——わずかに、手が止まった。
ほんの一瞬のことだったけど。
「ああ」短く言った。
「何ですか、これは」
「ヴェルタの建設記録だよ。最初の台帳だ」
台帳を棚の前のテーブルに広げた。
台帳は、ヴェルタという町が作られた経緯から始まっていた。
日付は——想像もできないほど、遠い昔のことだった。
大陸北部の気候変動で、霧苔の群生地が次々に失われていく中、この場所だけに霧苔が特異な密度で育っていたこと。
その霧苔から作られるインクが、文字の魔力を安定させる特別な力を持っていたこと。
その価値を守るために、ある人物がこの地に定住することを決めたこと。
「霧苔インクがここにあるのは、偶然じゃなかったんですね」言った。
「偶然ではないよ。この土地の性質と、長い時間と——あと、意志が必要だった」
ページをめくりながら読み進めた。
最初の住人のリストがあった。少しずつ人が集まってきた記録。
霧苔インクを守るための共同体が生まれていく様子。
そして——最初のページの署名が目に入った。
手が止まった。
「オー・リン」
声に出して読んだ。
オーリンは何も言わなかった。
「この名前は」オーリンを見た。
「さあ」
「さあ、じゃなくて」台帳をオーリンに向けた。
「同じ人ですか」
老司書はしばらく台帳を見た。
表情が変わらない。
でも——目が、少し遠い場所を見ていた。
「記録というのは、面白いものだよ」オーリンはゆっくり言った。
「何百年経っても、ちゃんと残っている」
「答えになっていません」
「そうかもしれない」
台帳を見た。
この台帳が書かれた日付、最初のページの署名、そして今目の前にいる老司書。
「ヴェルタを作ったのは、あなたですか」
長い沈黙が落ちた。
「作ったというより…できていくのを、そばで見ていた」
オーリンはゆっくり言った。
「最初は一人だった。霧苔を守るつもりで、ここに留まった。
そうしたら、人が来た。家が建った。
道ができた。気づいたら、町になっていた」
「それが何百年前のことですか」
「数えていない」老司書は静かに言った。
「数えるのをやめた。数えると重くなる。昔のことだ」
その言葉を、しばらく考えた。
数えるのをやめた。
孤独の形として、想像していなかった角度だった。
数えれば重くなる、だから数えない——それが何百年もここにいる人間の、一つの方法なのかもしれない。
台帳を見た。
それから、図書館の棚を見渡した。
天井まで届く棚に、何万冊という本と記録が並んでいる。
この全部が——この老人が、この町と一緒に積み上げてきたものだ。
「孤独じゃなかったですか」聞いた。オーリンが話してくれた夜と同じ問いを、もう一度。
「孤独だったよ」オーリンは答えた。その時と同じ答えを。
「でも——こういう場所になった。
記録が集まって、人が来て、また去っていく。
それを繰り返していくうちに——孤独の質が変わった気がする」
「どう変わりましたか」
「一人だが、一人ではない、というのかな」老司書は言った。
「記録がここにある限り、来た人間は全員どこかに残っている。
私は一人でも——記録の中に、たくさんの人間がいる」
その言葉を、しばらく考えた。
記録の中に、たくさんの人間がいる。
ルーカスの母への手紙のことを思った。
ツヅリの夫の記録のことを思った。
師匠の本のことを思った。
この三年間でどれだけの記録を書いてきたか。
ここにいた人たちが、ここに残っている。
「台帳は、奥にしまっておきますか」聞いた。
「そうしておいてくれ」オーリンは言った。
「でも——捨てないでくれよ」
「捨てません」そう返した。
「記録師として、そういうことはしません」
オーリンは少し笑った。珍しいことだった。
※※
その日の仕事を終えて、図書館を出た。
外では雪が降り始めていた。
ヴェルタの石畳が、白く染まっていく。
水路の水面に、雪がゆっくりと落ちていた。
霧苔の緑の上に白が積もって、不思議な色になっている。
緑と白が混じった、ここにしかない色だ。
少し立ち止まって、図書館を振り返った。
石造りの建物。
扉の横に掛かった案内板——ゲルト・カウネが最後に書いた看板。
オーリンが灯りをつけた窓が、霧苔の上に積もった雪にオレンジ色の光を落としていた。
ヴェルタは、こういう町だ。
来た人間が何かを置いていく。
あるいは、来た人間が何かを見つける。
記録が積み重なって、時間が積み重なって——小さな町の中に、たくさんのことがある。
まだ、自分がここで何を置いていくのかわからない。
でも——今日もここにいた。
明日もここにいるだろう。
それでいい気がした。
今はそれだけで十分だった。
雪が、霧苔の葉の上に静かに積もっていた。
鐘楼から、夜を告げる鐘が鳴った。
仕事部屋へ向かって、石畳を歩いて行く。
第20話終了。21話に続く。
さて、いかがでしたか。
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次は21話になります。
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