第19話 ツヅリの夫の一周忌の後
過去話で登場したツヅリのお話のその後です。
読んでいただけると幸いです。
朝の霧が晴れない日が続くようになった頃のことだった。
冬が近い。
水路から立ち上る靄が日中まで残り、石畳が一日中うっすら湿っているような季節だ。
ツヅリが訪ねてきたのは、彼女の夫の一周忌から三日後のことだった。
仕事部屋で午後の仕事をしていると、扉がノックされた。
開けると、ツヅリが立っていた。
前に会った時と、少し違う顔をしていた。
悲しみが消えたわけじゃない——目の奥には、まだそれがある。
でも何かが落ち着いていた。
あの時の、耐えているような強張りが、少しほどけている。
これが変化の一つだ、と思った。
「一周忌が終わりました」ツヅリは言った。
「少し話したくて」
「どうぞ」椅子を勧めた。
ツヅリは座った。
手を膝の上で重ねて、しばらく黙った。
「一周忌の日、夫が書いた看板を全部見て回りました。一人で」
「一人で」私は繰り返した。
「あなたと一緒に歩いた時とは、違って見えました。同じ看板なのに」
「どう違いましたか」
ツヅリはしばらく考えた。
「……一人でも、見られた。それだけです」彼女はゆっくり言った。
「去年は、見るたびに息が詰まった。
でも今度は…ちゃんと見られた。
泣きましたけど、見られた」
何も言わなかった。
「あなたが言っていたことを、あのあと、ずっと考えていました。
消したくはなかったんだね、という言葉を」
ツヅリは言った。
「そうなんです。消したくなかった。
だから一人でも見に行けた。見たかったから、行けた」
「良かったです」私は、静かに告げた。
ツヅリは少し間を置いてから、こちらを見た。
「一つ、頼んでもいいですか」
「もちろんです」
「夫のことを——正式に記録してほしいんです。
遺言状でも、契約書でもない。
ただ、この人がいたという記録を」
少し驚いた。
そういう依頼は、あまり受けたことがなかった。
「どんな内容にしますか」
「名前と、仕事と、どれだけここで生きたか。
それから——作った看板の数と、最後に書いた看板のこと」ツヅリは言った。
「図書館の案内板のことを、ちゃんと残したい」
羊皮紙を広げ、霧苔インクをペンに含ませた。
「お名前は」
「ゲルト・カウネ。
職業は看板職人。
ヴェルタで生まれ、ヴェルタで生きた。享年六十四」
「ヴェルタで生きた年数は」
「六十四年、全部です。
一度も町の外に出たことがなかった」
書いた。名前、職業、生涯。
「作った看板の数は」
「数えたことはなかったんですが…一周忌の日に数えました」
ツヅリは言った。
「そういう日に数えたということが、記録に残るといいと思って」
「残りますよ。どの日に数えたか、書いておきます」
「ヴェルタの中に、今も残っているものが四十七枚。
壊れたり外されたりしたものを含めると、もっとあるはずです」
「四十七枚」書いた。
「最後に書いた看板は——図書館の案内板です。
体が弱ってから、もう筆は持てないと本人も言っていたのに、それだけは自分で書くと言って」
「なぜ図書館だったか、今はわかりますか」聞いた。
ツヅリは少し考えた。
「わからないままです。
でも——オーリンさんと何か縁があったことは確かで。
夫はオーリンさんのことを『長くここにいる人だ』と言っていました。
長くここにいる人の場所に、自分の字を残したかったのかもしれない」
書きながら、その言葉を心に留めた。
ゲルト・カウネが何を感じてあの看板を書いたのか、今となってはわからない。
でも——残した。それは本当のことだ。
「最後に何か、付け加えたいことはありますか」
ツヅリはしばらく黙った。
「……よく笑う人でした」静かに言った。
「それだけ加えてください」
「なぜそれを」聞いた。
「それが一番大事なことだから」ツヅリはゆっくり言った。
「職業も、看板の数も——大事なことですけど。でも一番大事なのは、そこだから」
「よく笑う人だった」と書いた。
この一行が、この記録の中でいちばん重い、と思った。
記録を読み上げると、ツヅリは黙って聞いた。
最後まで聞いて、一つ深く息を吐いた。
「ありがとう」ツヅリは言った。「これがあれば、どこかに残りますね」
「残ります。
図書館に保管します。
ヴェルタの記録として。
ゲルト・カウネが最後に書いた看板のある、あの図書館に」
ツヅリは受け取り、大切そうに折りたたんだ。
「もう一つだけ——聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは——ヴェルタに、ずっといるつもりですか」
少し驚いた。予期しない問いだった。
「……わかりません」正直に言った。
「今は、ここにいます。それだけです」
「そうですか」ツヅリは立ち上がった。
「いてくれると、いいです。あなたがいるから…私は歩けた」
何も言えなかった。
「また来ます」ツヅリは言った。
「今度は——もう少し気楽に」
扉が開いて、ツヅリは出ていった。
扉が閉まってから、しばらく記録を見ていた。
「よく笑う人だった」という一行が、目に入った。
短い記録だった。でも——この人がいたことは、これで残る。ヴェルタの図書館に、ちゃんと。
外から、水路の音が聞こえていた。霧が、まだ晴れていなかった。
第19話終了。20話に続く。
如何でしょうか。
いよいよ次は20話になります。
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