第18話 師匠の本を読む夜
ついに師匠の本を開きます。
エイダは何を思うのでしょうか。
お付き合いください。
その夜、師匠の本を開いた。
特別な理由があったわけじゃない。
ルーカスのことがあった翌日で——届いた、という言葉がまだ頭にあった。
届いているなら、読むべきかもしれない、と思った。それだけだった。
まず机の上を片付けた。
書類を脇に寄せ、ペンと硯を棚に戻し、机の上に何もない状態にした。
それから本を置いた。
ランプを引き寄せ、光が本の上に落ちるよう位置を確かめた。
準備をしながら、自分が緊張していることに気づいた。
本を開く前から、手が少しこわばっている。
表紙に書かれた自分の名前を、もう一度見た。
師匠の字だ。
力強くて、迷いがない。
この字を見るだけで——喉の奥が、わずかにつまる感じがした。
表紙を開く。
最初のページに、短い書き出しがあった。
「エイダへ。読んでいるなら、元気でいるのだろう。それで十分だ」
しばらく、その一行を見つめた。
師匠らしかった。余計なことを言わない。
挨拶も謝罪も説明もなく、ただそれだけ。
元気でいるなら十分——それが師匠の言い方だ。
次のページから、本格的な内容が始まっていた。
日記じゃなかった。
師匠が記録師として生涯かけて発見したこと、考えたことが、整理されて書いてある。
私への手紙でも遺言でもなく——記録師から記録師への、仕事の引き継ぎみたいな内容だった。
文字の歪みについて。
師匠が最初に歪みを感知したのは、十七歳の時だったと書いてある。
私より一つ年上だ。
最初は頭痛だと思っていた。
改竄された文書を触れると頭が痛い、そういう体質なのかと思っていた。
歪みという概念に辿り着くまでに、三年かかった。
少し笑った。
師匠も最初はわかっていなかった。
あの厳しい師匠でも、三年かかったのかと思う。
歪みの読み方について。
私が師匠から教わったことの多くが、改めて整理されて書いてある。
でも——師匠が生前に言わなかったことも、書いてあった。
「歪みには感情の色がある。
悲しみと怒りと恐怖と愛情では、感触が違う。
これはエイダにはまだ教えていない。
教える前に別れてしまったから。
でも、おそらくエイダはすでに自分で気づいているはずだ」
少し驚いた。気づいていた。
ツヅリの歪みが悲しみの色をしていると感じたのも、ルーカスの歪みが痛みの色だと感じたのも——自分で気づいていたことだった。
師匠は私のことを、私が思う以上によく知っていた。
組織に送り込んだことについて、師匠は書いていた。
「あなたを危険な場所に送ったことを、後悔したことがある。
でも後悔しなかったことも、ある。
危険だとわかっていて送ったのは、あなたの能力を信じていたからだ。
信じていたことは間違っていなかった。
あなたは逃げ出した。
でも生きている。
それが答えだ」
謝罪じゃなかった。
説明でもなかった。
ただ——信じていた、と書いてあった。
怒りが湧いてくるかと思っていた。
少し、湧いた。
でも——信じていた、という言葉が、怒りよりずっと重かった。
師匠は謝るより先に、信じていたと書いた。それがこの人の誠実さだ、と思った。
記録師の仕事について。師匠の答えが書いてあった。
「記録師の仕事は、あったことを残すことだ。
それだけだ。何のために残すかは、記録した後でしかわからない。
今は意味がわからなくても、百年後に誰かが読んで初めて意味を持つこともある。
だから記録する。
今の自分に意味がわからなくても、正確に、誠実に」
しばらく、その言葉の前で止まった。
今の自分に意味がわからなくても——それは、師匠が記録師の仕事について書いた言葉だ。
でも読みながら、師匠が自分の人生を振り返って書いた言葉のように聞こえた。
何百年という時間の中で、意味がわからないままにしてきたことが、師匠自身にもあったのかもしれない。
最後のページは短かった。
「元気でいろ。
それだけでいい。
師匠より」
本を閉じた。
ランプの炎が、揺れていた。
外の風が、窓を鳴らしていた。
気づくと、夜が明けていた。
※※
翌日、図書館に行くと、オーリンは棚の整理をしていた。
「読みました」言った。
老司書は振り返った。
「そうかい」
「元気でいろ、って書いてありました。最後に」
「師匠らしいね」オーリンは静かに言った。
かすかに、笑った気がした。
「はい」言った。
「師匠らしかった」
それだけだった。それで十分だった。
今日の仕事のための資料を棚から取り出した。
オーリンは棚の整理を続けた。
いつもの図書館の朝だった。
でも——少し違った。積み重なってきた重さの一部が、おろせた気がした。
全部じゃない。でも、一部は。
怒りも悲しみも、全部消えたわけじゃない。
師匠がどこにいるかも、まだわからない。わからないことは、昨日と変わらずたくさんある。
でも——師匠が信じていた、という事実は今日からここにある。
それは本当のことだ。
ヴェルタの霧が、今日も水路から立ち上っていた。
第18話終了。19話へ続く。
如何でしょか。
そろそろ、物語も佳境を迎えます。
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