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第22話 外から来た記録

依頼主の持参した記録には、

ちょっとした引っ掛かりがあった。


エイダはどうするのでしょうか?

 男が仕事部屋を訪ねてきたのは、霧の晴れた午後のことだった。


 三十代後半くらい、きちんとした身なりの男だ。

 外套は良質の毛織物で、靴は旅慣れた感じに擦れているけれど手入れが行き届いている。

 荷物は皮革の鞄一つ。書類を持ち歩く人間の鞄だ。顔立ちは整っていて、礼儀正しい印象だった。


「記録師のエイダ殿でしょうか」


「そうです」


「カデルと申します。大陸南部の法務事務所に勤めております」

 男はていねいに頭を下げた。

「急なお願いで申し訳ありませんが、お仕事をお願いしたく参りました」


 中に入れて、向かいの椅子を示した。

 カデルは鞄を膝の上に置いて、きちんと背を伸ばして座った。

 急いでいる様子もなく、緊張している様子もない。

 仕事の依頼に慣れた人間の座り方だ、と思った。


「依頼の内容をお聞きします」


「はい。古い取引記録の写しを作っていただきたいのです」

 カデルは鞄を開け、書類の束を取り出した。

「五年前に締結された取引契約の原本が、こちらになります。

 所属する事務所の依頼主から、正式な写しの作成を頼まれまして。

 ヴェルタの記録師に依頼すれば霧苔インクで書いてもらえるということで、この町まで参りました」


「拝見します」


 書類を受け取った。


 その瞬間、指先に何かが走った。


 痺れ、とまでは言えない。

 でも確かに何かに触れた感触だ。

 五年前の取引契約書——紙はしっかりしていて、文字もきちんと書かれている。

 改竄の歪みではない。でも。


 書類を机の上に置いて、もう一度触れた。


 ある。


 薄い。

 でも確かにある。

 かつて何千回と感じた感触だ。

 大陸の大きな都市で、あの組織の事務所で働いていた三年間——扱う文書のある種のものにだけ、この感触があった。

 改竄でも呪いでもない、何か別の汚れ。

 正しくない場所を経由した水が、正しくない色を帯びるように——この書類は、清潔でない何かを経由してきた。


 七年ぶりに触れる感触だった。


 表情を変えなかった。

 それは長年の仕事の中で身についた習慣だ。

 文書に何を感じても、顔に出さない。

 依頼人の前でそれをするのは仕事の基本だ。

 今もその習慣が、自分を助けていた。


「少し確認の時間をいただけますか」ゆっくりと言った。

「文書の状態を確かめた上で、お引き受けできるかどうかをお伝えしたいので」


「もちろんです」カデルはにこやかに頷いた。

「どれくらいかかりますか」


「明日の朝まで、いただけますか。

 宿はどちらに」


「ヘルガさんの宿です」


「では明日の朝一番に、お返事を」


 カデルは「わかりました、お待ちしております」と言って立ち上がった。

 礼儀正しく頭を下げて、仕事部屋を出ていった。


 扉が閉まった瞬間、ようやく息を吐いた。


 机の上の書類を見た。


 五年前の取引契約書。

 二つの商業組織の間の、物資の輸送に関する契約だ。

 一方の組織の名前は聞いたことがない。

 もう一方の組織の名前は——直接ではない。

 でもかつて働いていたあの組織の、傘下にある名前だった。

 末端の、小さな組織だ。

 本体と直接の関係はないかもしれない。でも——


 もう一度、書類全体を丁寧に触れていった。


 歪みは薄い。

 深くない。

 契約の内容そのものに問題があるわけではないようだ。

 書かれていることは事実だろう。

 ただその事実が、清潔でない場所の一部をなしている——そういう感触だった。

 カデルは道具として使われているだけかもしれない。

 あの男が何かを知っていたり、悪意を持っていたりする気配は、少なくとも書類からは感じ取れない。


 書類を封筒に戻して、机の引き出しに入れた。


 立ち上がって、コートを着た。


 図書館へ行くのは夕方が多かったけど、今日はそれを待っていられなかった。


 石畳を歩いた。

 午後の光が低くなっていて、水路の水面がオレンジ色に染まっている。

 鐘楼の影が長く石畳に伸びていた。

 図書館の扉を開けると、いつもの本と霧苔インクの混じった匂いがした。

 その匂いを嗅ぐだけで、少し落ち着いた。


 オーリンは棚の中ほどで、細い本を棚に差し込んでいた。

 入ってきても、手を止めなかった。

 本を差し込み終えてから振り返った。


「何かあったかね」老司書は言った。


 いつもと違う様子を、それだけで感じ取っている。

 今更驚かなかった。


「見てもらいたいものがあります」


 封筒を出した。オーリンは受け取り、書類を取り出して、しばらく読んだ。

 文字の内容を読んでいる。

 でも途中で、老司書の指が紙の上をなぞった。

 そのなぞり方が、意味を持った動きだった。


「どんな感触があったかね」オーリンは書類を見たまま言った。


「薄い歪み。組織の関係するものを扱っていた時に感じていた色と——同じです」


 沈黙が落ちた。


 図書館の静けさの中で、その沈黙はいつもより少し重かった。


「依頼人は」


「末端の法務事務所の人間だと思います。

 本人に悪意はない。

 書類も、表向きの内容は普通の取引記録で」


「普通の取引記録だが、何かを経由している」


「そうです」


 オーリンは書類を封筒に戻した。

 それを返してきた。老司書の顔は穏やかだったが、目が少し違った。

 何かを測るような、静かな注意深さがあった。


「受ける必要はない」オーリンは言った。「ただ——」


 間があった。


「ただ、断る必要もない」


 その言葉の間にある空白を、しばらく考えた。


「どちらでもいい、ということですか」


「あなたが決めることだよ」老司書は静かに言った。

「ただ一つだけ言うなら——どちらを選ぶにしても、あなたが今日ここに来たのは正しかった」


「感じた事を確認しに来た、ということですか」


「感じたことを黙って飲み込まなかった、ということだよ」


 その言葉を、少し時間をかけて受け取った。


 七年前、組織の中で歪みを感じ始めた時、しばらく黙っていた。

 師匠への手紙を書いたのは、二年目が終わる頃のことだった。

 一年近く、一人で抱えていた。抱えながら、自分の感覚がおかしいのではないかと何度も思った。

 感じたことを信じることが、怖かった。


 今日は違った。感じた瞬間に、ここへ来た。


「明日、お返事をします。受けます」


 老司書は少し間を置いた。


「そうかい」


「ただ、歪みの記録を手元に残します。

 依頼人には伝えませんが——私の記録として」


「それが記録師の仕事だね」オーリンは静かに言った。

 批評でも同意でもなく、ただ確認する口調で。


 図書館を出た。


 外はもう夕暮れで、石畳が橙色に染まっていた。

 水路の水面に空の色が映っている。遠くで鐘楼の鐘が鳴り始め、夕方を告げた。


  ※※


 仕事部屋に戻り、机に向かった。


 まず普通の羊皮紙を取り出した。ペンを取り、霧苔インクを含ませる。


 今日触れた歪みの色、質感、強さ——それを言葉にしていった。

 改竄ではなく汚染、深さは薄い、組織の末端を経由した感触、依頼人に悪意はないと思われる。

 それをできる限り正確に書いた。


 書きながら、文字を書く自分の指先を見た。


 この指先で、七年間、何を感じてきたかを考えた。

 ヴェルタに来てから書いた記録の数は、もう数えていない。

 土地契約、売買証書、遺言状、証言記録、古文書の解読——一つ一つは小さいが、積み重なればかなりの量になる。

 その全部に、この指先が触れてきた。


 でも今夜——この感触があることで、何かを記録できた。


 カデルがどこの事務所の人間で、その事務所がどこに繋がっていて、その繋がりがどれほどの意味を持つのか、今はわからない。

 この一枚の記録が何かの役に立つかどうかも、わからない。

 師匠が本の中で書いていた。

 今の自分に意味がわからなくても、百年後に誰かが読んで初めて意味を持つこともある。

 だから記録する。


 ペンを置いた。

 羊皮紙に書かれた歪みの記録を、もう一度読んだ。


 正確に書けていた。どこにも嘘がない。

 自分が感じたことを、感じたままに書いた。

 それが師匠の教えた記録師の仕事の基本だった。

 華やかでも、大きくもない。

 ただ、誠実に書く。


 封筒に入れて、棚の一番奥にしまった。


 いつか誰かが読む日が来るかもしれない。

 来ないかもしれない。でも記録は残った。


 ランプを消す前に、しばらく暗くなった部屋に座っていた。


 窓の外に水路の音が続いている。ヴェルタの夜の、いつもの音だ。


 七年前は逃げた。今日は、逃げなかった。


 それだけのことだ。


 でもそれだけのことが、ひどく大きく感じた。

 大きく感じることが、少し恥ずかしいような気もした。

 でも恥ずかしがることもない、とも思った。

 三年前の私なら、この書類に触れても何も感じなかったかもしれない。

 いや、感じても何もしなかったかもしれない。今日こうして動けたのは、三年間ここにいたからだ。

 ルーカスの話、ツヅリさんの話、オーリンとの炉辺の夜——そういうことが積み重なって、今日の自分になっている。


 水路の音が、静かに続いていた。


第22話終了。23話に続く。


さて、いかがでしょうか。

このお話も、徐々に終わりに近付いています。


感想、コメント、ご指摘、お待ちしております。

フォローもよろしくお願いいたします。


毎日更新しております。

よろしくお願いいたします。

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