第16話 オーリンが話した夜
ついにオーリンが語ります。
師匠の謎が少し明らかに・・・
図書館の奥に、炉がある部屋があった。
三年間、知らなかった。
棚の奥にある扉の向こうにあるとは思っていたけれど、開けたことがなかった。
オーリンに案内されてその扉を開けると、四畳ほどの石の部屋があった。
飾り気はゼロ。棚も窓もなく、炉と椅子が二脚だけ。
でも炉には火が入っていて、茶の用意がされていた。
石の壁が熱を閉じ込めているせいか、外よりずっと暖かい。
時間が止まったような、静かな空間だ。
「ここに来るのは初めてですか」
「あなたはね」オーリンは椅子を示した。「座りなさい」
師匠の本を膝の上に置いて、椅子に座った。
炉の火が、部屋をゆっくりと温めている。
外の夕暮れがここまでは届かない。
オーリンは向かいの椅子に座り、茶を二つ用意した。
自分でも飲むとは珍しい。黙って受け取った。
「何から話せばいいかな」
老司書はゆっくり言った。
独り言みたいな口調だった。
「何でも」言った。「話してくれるなら、何でも聞きます」
オーリンは茶を一口飲んだ。炉の火を見た。
「私はこの土地に、留まる理由がある人間だ」
「留まる理由、というのは」
「自分で選んだわけではない。
ただ——ここに居続けることが、私の役割になった」
老司書は静かに言った。
「ヴェルタという町が生まれる前から、この場所にいた。
霧苔が最初に群生したとき、私はここにいた」
黙って聞いた。
「霧苔インクの力は、ただ植物の性質ではない。
この土地の何かと、霧苔が長い時間をかけて結びついた結果だ。
その結びつきを守るために——あるいは、守ることができる存在が、ここに残った」
「オーリンさんが…」
「そうだね」老司書は短く言った。
「何百年というのがどれほどのことか、あなたには想像しにくいかもしれない。
私にも、最初はわからなかった。気づいたら、そうなっていた」
炉の火を見た。何百年。
この老人が、この図書館で、何百年もかけて本を集め、記録を守ってきた。
「孤独じゃなかったんですか」
オーリンは少し黙った。
「孤独だったよ」静かに言った。
「人が来て、親しくなって、老いて、死んでいく。
それを何度も繰り返した。慣れることはなかった」
「慣れないんですか」
「慣れてはいけない」老司書は言った。
口調が、わずかに変わった。
「慣れたら終わりだ。一人一人と向き合うことをやめたら、ここにいる意味がなくなる」
その言葉に、長い時間の重さがあった。
何十回、何百回という別れを経てもなお、慣れることを選ばなかった人間の声だった。
「それでも、ここにいた」
「ここにいることが、私のできることだったから」老司書は言った。
「記録を守る。来た人間の役に立つ。それだけだ」
オーリンを見た。
「師匠のことを、いつから知っていたんですか」
「長く知っている」オーリンは言った。
「あなたが生まれる前から。
師匠も——普通の人間より少し長く生きている人物だから」
「師匠も、長命だったんですか」
驚いていた。
師匠が。あの、厳しくて、不器用で、でも温かかった師匠が。
「私ほどではない。
でも普通より長く。
そういう人間は、時々いる」老司書は言った。
「私ほどではないが——百年以上生きる人間が、この大陸には稀にいる。
師匠もその一人だった」
「師匠に教わっていた頃、師匠が図書館に来ていたことを——師匠は知っていましたか」
「知っていたよ」オーリンはゆっくり言った。
「師匠があなたをヴェルタへ送る前から、何度か話をしていた。
あなたのことも聞いていた。
優秀な弟子がいると」
それを聞いて、胸の中に何か複雑なものが動くのを感じた。
師匠は知っていた。
オーリンと、ここのことを知った上で、私をヴェルタへ向けた。
「師匠があなたをヴェルタに来るよう誘導したのは——」
「私に預けるためだよ」オーリンは静かに言った。
「師匠はあなたのことを心配していた。
組織から逃げて、一人で生きていくことを。
この町なら、私がいる。
それで安心していた・。
膝の上の本を見た。師匠の字で書かれた自分の名前。
「師匠は今、どこにいるんですか」
オーリンはしばらく黙った。炉の火が、揺れた。
「わからない」老司書は言った。
「それは本当のことだ。
二年前を最後に、私にも消息がわからない」
「生きていると思いますか」
「……思いたいよ」オーリンはゆっくり言った。
「でも確かなことは言えない」
正直な答えだった。
「さあ」ではなく、「わからない」「思いたい」——それがこの老人の限界だった。
しばらく黙っていた。炉の火の音だけが聞こえる。
「ありがとうございます」やっと言えた。「話してくれて」
「遅すぎたかもしれない」
「いいえ」そう、返すのがやっとだった。
「今日で良かったです。今日じゃなかったら、聞けなかった気がします」
「なぜ今日だったと思う?」
少し考えた。
「マリスさんに会ったから。
本を受け取ったから。
そのまま今日——この流れの中だったから、聞けた気がします。
別の日だったら、踏み出せなかったかもしれない」
オーリンは少し黙った。それから、小さく頷いた。
茶が冷める頃まで、二人は炉の前に座っていた。
それ以上、大きな話はしなかった。
でも——それで十分だった。
帰り際、扉のところで振り返った。
「師匠の本は——いつか読みます。準備ができたら」
「急がなくていい」老司書は言った。「本はなくならない」
図書館を出た。
外はもう夜だった。水路の音が、暗い石畳に響いている。星が出ていた。
翌朝、図書館に来るとオーリンはいつも通り梯子の上にいて、何事もなかった顔をしていた。
私も何事もなかった顔で、棚から資料を取り出した。
でも——何かが、変わっていた。
昨夜の前と後では、この老人が何者であるかを知った上でここにいる。
それは小さいが、確かな違いだった。
第16話終了。17話に続く。
如何でしょうか。
明日も続きます。
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